菓子 曖昧さ回避【中半】ヨーロッパの菓子史 菓子と宗教 イスラム文化と砂糖と十字軍
中国の甜点心
文明の黎明期、同じような粉食文化が始まりながら、中国では菓子について独自の位置づけがなされ、点心としての発展を遂げた。
現代、世界で菓子として認識されている食品を、中国の食において一括りにするのは難しい。中国の食は、食事をするといった意である「吃飯」と、軽食をとると言った意味合いの「吃点心」に大別できる。吃点心の中でも、粉を練って作った皮で餡を包み込んだものを点心と言い、さらに甘味のものを甜点心としており、「月餅」や小豆餡の饅頭である「豆沙包子」などが良く知られている。同じく吃点心の中で、果物を意味する果子があり、果物の砂糖漬けや、果汁で作った糖菓子などはこれに含まれる。「杏仁豆腐」は本来は「吃飯」の菜で宴席料理の甜湯であるが、少量を供した場合は小食として吃点心としても扱われる。アイスクリームや氷菓は食では無く、飲に属し喝の冷飲として扱われている。
黄河文明期、紀元前3000年頃の仰韶文化期において石臼や杵が使用されており、穀類を砕き加工し調理する技術は中国でも古代から知られていた。だが、粉食が中国食文化に浸透しはじめたのは、前漢武帝の時代、匈奴を挟撃するべく大月氏に使者として送られた張騫が、紀元前126年に小麦とその製粉技術を持ち帰ってからとされている。北魏の末、500年頃の著作『斉民要術』には、粉食としての点心が詳細に記述されており、小麦を加工した「餅(ピン)」などの記述も見られるが、当時の製粉技術は石臼と杵であり、7世紀初頭から10世紀初頭に栄えた唐の時代、碾磑など水車を使った大規模な製粉技術がもたらされて後、中国食文化が本格的に粉食主体となったと考えられている。さらに、唐時代はイスラム帝国が勃興する時代と重なっており、世界交易の拠点でもあった長安にはペルシア人も頻繁に訪れた。長安の都にはドーナッツのような揚げ物である「環餅」や「油餅」などを売る店が並び、ペルシア風の食べ物「胡食」が流行した。精糖技術も伝わり甜点心は更に発展した。茶を飲み点心・小食を食べるいわゆる飲茶という食習慣が全国に普及したのも唐の時代と考えられている。以降、元代には蒙古族の食習慣が取り入れられ、乳や酪といった素材を用いた甜点心が作られた。清代には満州族のお菓子「シャーチーマー」なども中国全土に広がり、また1840年のアヘン戦争に前後してヨーロッパの菓子も流入した。ビスケットは「餅乾」として普及し、ケーキは欧風菓子を意味する「西式点心」として区分されていた。
アメリカの菓子
アメリカの菓子は、今日の日本人の標準的な感覚からすると着色料や砂糖などが多く使われているものが多い。アメリカの菓子は、リコリスや、ジュースでいえばルートビアやジンジャーエール、ドクターペッパーなどの薬のような風味のものも多い。また、トルティーヤチップスやポテトチップスなどをはじめとしたスナック菓子が人気である。チョコレートではM&M'S(マスターフーズ)などが有名である。
健康との関連
アメリカ医学研究所 (IOM) は、子供をターゲットとした高カロリーで栄養価に乏しい食品のコマーシャルが、肥満と関連しているとし、自主規制ないし政府の介入を求めた[6]。シカゴ大学は、18歳未満をターゲットにしたコマーシャルの90%以上が栄養価に乏しい食品であり食の嗜好に影響を与えると報告した[7]。マクドナルドやペプシコなど11の大きな業者が、12歳以下の子供にはジャンクフードの広告をやめることで合意した[8]。
日本における菓子
「和菓子」も参照
歴史
「和菓子#歴史」も参照
現代においても会席料理などでは、このようなフルーツのことを「水菓子」と呼ぶ。
日本では縄文時代において栗の実を粉状にしたものを固めて焼いたと見られる独自のクッキーが食べられていた。 また古代の日本では果実や木の実などを総称して「くだもの」と呼んでいた。漢字が伝来し「くだもの」に「菓子」あるいは「果子」の字があてられるようになった。そして、奈良時代から平安時代にかけて中国から穀類を粉にして加工する製法の食品が伝わり、これが唐菓子と呼ばれるようになる。果実とは全く異なる加工された食品ではあるが、嗜好品としては果実同様であるとして「くだもの」と分類されたのではないかとも考えられている。なお、加工食品としての菓子が伝来して以降、果物については「水菓子」と呼んで区別するようになった。
続いて、室町時代から安土桃山時代にかけて茶道の隆盛に伴い、点心としての菓子が求められはじめた。中国では肉類を用いて作られている羊羹や饅頭がもたらされたが、日本では仏教の影響下、肉類ではなく小豆や豆類など植物性の素材に置き換えて作られるようになった。これが後に、和菓子の方向性を決定したとも考えられている。
一方、室町時代末から鎖国令までの間、世界は大航海時代の中にあり、南蛮菓子の輸入時代ともなっていた。カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラなど、日本独自の製法が工夫され和菓子として発展した菓子もある。
茶道と伴に発達した点心は京都でさらに発展し、練り羊羹や餅菓子、半生菓子から打物の干菓子まで、工芸的趣向をこらしたものになり京菓子として隆盛を極めた。だが、江戸時代も後期になると京菓子に対抗して江戸文化により育まれた上菓子が隆盛を見せる。また、白砂糖は上菓子のみに用いるといった制限を逆手にとり、駄菓子と言われる黒砂糖を用いた雑菓子類も大きく発展した。
明治維新により鎖国令が解かれると、海外からドロップ、キャンディ、チョコレート、ビスケットなどが輸入されるようになり、日本の菓子は革命とも言える大転機を迎える事になった。大航海時代からの経済発展により完成の域に達したフランス菓子などが伝えられる一方で、産業革命により機械化効率化した菓子製造法まで一気に伝来し、日本の「洋菓子」として幅広い発展を見る事となった。10年ほどの間「菓子税」という国税があったが、1896年(明治29年)の営業税の国税移管にともない、廃止となった[9]。