日本の航空事故(にほんのこうくうじこ)では、日本国内で発生した主な航空事故について記述する。大部分は定期航空便による事故であるが、一部死傷者を出すなどして大きく報道された事例も含まれる。
凡例
- 事故日
- 航空会社と便名もしくは機体記号または機体名
- 機種と製造元
- 犠牲者数もしくは負傷者数
- 事故の状況となっている。また、個別の記事がある場合には
- 詳細、として内部リンクしている。
目次
- 1凡例
- 21910年代
- 31920年代
- 41930年代
- 51940年代
- 61950年代
- 71960年代
- 81970年代
- 91980年代
- 101990年代
- 112000年代
- 122010年代
- 13脚注
- 14関連項目
- 15外部リンク
1910年代
1913年
1920年代
1928年
- 1928年 5月3日
- 便名: 中島飛行機 試験飛行機(機体記号J-BAKB)
- 機種: 中島 N-36 試作1号機 (中島 ブリストル ジュピター 6型 空冷星形9気筒 420馬力)
- 死者: 8人死亡。
- 状況:1928(昭和3)年5月に逓信省航空局が募集した日本初の準国産旅客機要求に対してとして三菱航空機、愛知時計電機と共に試作機として完成し1928年5月4日に加藤寛一郎 飛行士の操縦により,全席満員の状態で試験するため,工員7人を同乗させて離陸,高度約100mに達したころ,突如真っ逆さまに墜落して燃料に引火し炎上し乗員全員である8人が焼死。
1930年代
1931年
1932年
1937年
1938年
- 1938年 8月24日
- 便名: 1) 日本飛行学校訓練機、2) 日本航空輸送旅客機
- 機種: 1) アンリオ複葉機、2) フォッカー スーパーユニバーサル機
- 死者: 両機に搭乗の計5人と地上の45人が死亡。
- 状況: 大森上空で空中衝突。一機が工場に墜落し爆発炎上したため、付近の市民も数多く巻き込まれた。
- 詳細:「大森民間機空中衝突墜落事故」を参照。
- 1938年 12月8日
1939年
- 1939年 5月17日
- 便名: 大日本航空 下り便
- 機種: ロッキード スーパーエレクトラ 球磨号
- 死者: 乗員乗客11人中6人が死亡。
- 状況: 日中連絡航空便が博多湾岸にあった飛行場から離陸に失敗し海岸に墜落。
- 詳細:「大日本航空球磨号墜落事故」を参照。
1940年代
1940年
- 1940年 2月5日
- 便名: 大日本航空 下り便
- 機種: 中島飛行機 DC-2(ライセンス生産)「阿蘇」号(J-BBOT)
- 死者: なし。
- 状況: 福岡から那覇を経由して台北に向かっていた旅客機が、エンジントラブルにより尖閣諸島の魚釣島の海岸に不時着[6]。乗員乗客13人は無事に救助されたが、機体は現地にて放棄。
- 詳細:「 大日本航空阿蘇号不時着事故」を参照。
- 1940年 12月20日
1950年代
1952年
1957年
- 1957年 3月4日
- 所属: 航空自衛隊
- 機種: C-46輸送機
- 死者: 17人。
- 状況: 鳥取県境港市の航空自衛隊美保基地に着陸しようとして失敗、基地西側1kmほど離れた海上に墜落した。
- 1957年 9月30日
- 便名: 日本航空 108便「雲仙」号
- 機種: ダグラス DC-4
- 死者: なし(ただし負傷者5人)。
- 状況: 伊丹空港から離陸後にエンジントラブルにより不時着。
- 詳細:「日本航空雲仙号不時着事故」を参照。
1958年
- 1958年 8月12日
- 便名: 全日本空輸 25便
- 機種: ダグラス DC-3
- 死者: 乗員乗客33人全員が死亡。
- 状況: エンジントラブルのため羽田空港に引き返そうとしたが、利島近海に墜落。
- 詳細:「全日空下田沖墜落事故」を参照。