メタ哲学
哲学 |
---|
![]() |
伝承[表示] |
時代[表示] |
分野[表示] |
ポータル |
|
メタ哲学(英語:Metaphilosophy)は哲学の哲学とも呼ばれ、哲学の本性、目的、方法を研究対象とする。
Metaphilosophy(メタ哲学)という言葉は20世紀中ごろから英語圏で通用するようになったようだ[1]。しかし通用している一方で「二次哲学」が通常の哲学と異なるかどうか、広く受け入れられた意見もなければ注目すべき議論も存在しない。分析哲学では伝統的に過去の研究[2]に対するコメントや研究に対して、元の研究が哲学的問題の解決に貢献したのと対比的であることを示すように標識付けするために主に使われてきた。モリス・ラザロヴィッツは1940年(昭和15年)からこの言葉を使い始めたと主張しており、1942年(昭和17年)にははっきりと文面に残している[3]。より早い使用はフランス語の文献からの翻訳の中に見られる[4]。1960年(昭和35年)ごろにはこの言葉は多かれ少なかれ通用しており、リチャード・ローティが使用したり[5]、ラザロヴィッツの著書のタイトルに使われたりしている[6]。1970年(昭和45年)には雑誌「Metaphilosophy」が創刊している[7]。
目次
メタ哲学の理論的根拠
メタ哲学は、哲学に関する一般的言明のうちいくつかを哲学それ自体と区別することは生産的であるという考えに基づいている。他の多くの文化的実践と比較すると、哲学にとってこの区別はむしろ疑わしいものであるが、言語の場合も哲学と同様である。つまり、英語という言語について英語で話すとき、対象としての英語とメタ言語としての英語が区別されている。哲学者がメタ哲学という用語を使うとき、それは未だ少数派なのであるが、多数派の哲学者がこの考えに探究する価値を見出していないと推測される。それ自体が再帰的な営みである限り、哲学は、例えばそれ自体の伝統や、論敵、歴史に訴えるといったことによって常に既にその思想を融合させている。したがって、例えばヘーゲルのような歴史主義に係る哲学は、メタ哲学という言葉を使っていなくともメタ哲学である。共時的な方法や体系学的な方法は歴史主義的な方法や通時的な方法よりはっきりと「メタ哲学的」である。
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインはメタ言語からメタ哲学を類推することを否定したことで知られる:
ある人がこう考える:哲学が「哲学」という言葉の用法について考えればそれは二次哲学に違いない。しかし、そうではない。というのは、それはむしろ綴字法の場合と同様である。綴字法は二次綴字法となることなく他の字と同様に「綴字法」という字句を扱う。
—ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 『哲学探究』, 121
つまり、「綴字法」という字句の綴字法を考えることは確かにメタ的な営みだが、しかし「綴字法」という字句も元から綴字法の扱う対象であり、それを扱ったからといって通常の綴字法から分離して「メタ綴字法」「二次綴字法」が生じるわけではない。哲学の場合もこれと全く同じである、とヴィトゲンシュタインは考えている。近年ではティモシー・ウィリアムズがメタ哲学という言葉を使うのをやめ、それが勘違いかもしれないということを述べている。:
私はすでに『メタ哲学』という言葉を却下している。哲学の哲学は他のあらゆる哲学の分野がそうであるように自動的に哲学の一領域ということになるが、メタ哲学という言葉はまるでそれが哲学を上から見下ろしすものであるかのように感じられる。
—ティモシー・ウィリアムズ, The Philosophy of Philosophy
ニコラス・レシャーやリチャード・ダブル[8]と言ったほかの哲学者たちはメタ哲学という言葉を採用しいい意味で使っている。普遍的な哲学的原理の研究を提出しつつレシャーの著書はメタ哲学についての彼の考えとともに始まっている:
メタ哲学は哲学を実践することそれ自体に対する哲学的考察である。その最終的な目的は見込みや展望を闡明する領域の方法を研究することである
—ニコラス・レシャー, Philosophical Dialectics, an Essay on Metaphilosophy, p.1
哲学の本性
定義
哲学(Philosophy)という言葉は古代ギリシャ語に由来する。つまり、φιλοσοφία (philosophía)は "知を愛すること"を意味する[9][10][11]。しかしながら、この言葉の可能な意味として「知を愛する」を挙げる文献はほとんどなく[12]、他の多くの文献はこの言葉の語源は「助けがあまりない」であるとしている[13]。 「Philosophy」という言葉の意味や用法は歴史を通じて変化してきた。古典古代においてはほとんどあらゆるすべての研究を含んだ。デカルトにとっては学問の女王であり、究極的な正当化を行うものであった。デイヴィッド・ヒュームの時代には「形而上学」と「倫理学」が人間の学問であると解釈された。そして現代では分析哲学が自身を概念の研究であると定義することを好んでいる。
哲学の定義の多くが定義することの難しさを述べることから始まっており、定義することが「悪名が知れ渡るほど難しい」[13]と言ったり、「簡単な定義は存在しない」[14]と言ってみたり、哲学の定義のうち最も興味深いものは物議を醸す[15]と言ったりしている。
「我々は哲学の特有の形質について指摘できる。誰かが数学とは何かと問うたとき、我々は議論のために辞書的な定義によって数の学問であると言うことができる。そう定義する限り、これは議論を引き起こしそうにない言明なの…。明確に限定されたひとまとまりの知識が存在する限りどんな分野でも同じやり方で定義が与えられる。しかし哲学はそのようには定義できない。哲学のどんな定義でも議論の的となるし、それらの哲学の定義自体が何らかの哲学的立場を表現している。哲学とは何か知る唯一の方法は哲学することである。」
—バートランド・ラッセル、The Wisdom of the West, p.7
しかしながら、一般的な言及がある作品の評論[12][16][17][18][19][20][21][22]は、哲学は根本的・普遍的なテーマの研究を必然的に伴うということの根拠に関しては広範な同意が得られていることを示唆している。例えば、「思考、行動、実在に関係する最も根源的・普遍的な概念・原理」[23] 、「我々の宇宙やその中で我々が占める場所に関する最も普遍的な問題」[12]、「それが研究する万物の究極的に根本的な理由」あるいは「万物の根本的な理由もしくは原因」 [20]。 オクスフォード哲学辞典 には、それは世界の基礎や前提をむき出しにするために世界のもっとも普遍的・抽象的な点とそれを使って我々が考えるところのカテゴリーを研究することである、とある[17]。
哲学は根本的には批判的思考に関するものであって[15]、我々が当然のものと考えている信念について考察するもの[13]であると考える著述家もいる。ウィルフリード・ホッジスは以下のように書いている。:
イギリスで言われる所の哲学は(多くのヨーロッパの哲学もそうなのだが)、あらゆること、特に明らかで疑い得ないように思われることを信頼しないことである[16]。