世界恐慌 Ⅰ【冒頭】目次 投資信託による大衆化  

 

投資信託による大衆化

第一次世界大戦1920年代のアメリカは、大戦への輸出によって発展した重工業投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。

1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、それはヨーロッパに輸出できていた。しかし第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力が、世界的な機械化による生産力の向上についていけなくなった。ソ連ネップで自給自足したことも農業恐慌の背景となった。合衆国では鉄道石炭産業部門でも過当競争が起こり、自然独占が進もうとしていた。

ダウ平均株価の指数を表すグラフ

アメリカの株式市場1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。投資家は個人であっても株式等を担保とする信用取引により容易に金を借りることができた。株式分割だけでなく投資信託の普及も大衆の市場参加を加速させていた。投信会社等は持株会社を同一のグループに複数設けてレバレッジをかけるようなこともしていた。イーヴァル・クルーガーサミュエル・インサル金融帝国ジャズ・エイジを演出していた。公共事業全体が投信の津波にさらわれた。1928年には生命保険会社も優先株への投資を認められた。翌年にかけての投信会社増加率がピークに達した[7]。この結果ダウ平均株価は1924-29年の5年間で5倍に高騰した(最終年下半期込み)。

経済史ではJPモルガンが有名すぎるために電気事業ばかり注目されがちであるが、しかしヴァイマル共和政の賠償支払を促すために化学工業を国際的に振興する仕組みができていたことも忘れてはいけない。クローズド・エンド型の投信会社にはデュポンのクリスティアナ・セキュリティーズ(Christiana Securities)、ベルギー系のソルベー・アメリカン・インベストメント、そして本命アメリカンIGケミカルといった、欧州と関係の深いものが存在した[7]。クローズド・エンドの投信会社でレバレッジをかけているタイプは、1927年から保有銘柄を減らしてきていた[7]。1927年ジュネーブで行われた世界経済会議では[8]、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択された。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。

1928年、ブラジルでコーヒーの過剰生産による恐慌が起こった。

1929年7月30日の報道によると、ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである。[9]

1929年8月9日、連邦準備制度公定歩合を6%に引き上げた。同年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと述べた[10]

1929年9月26日、イングランド銀行が金利を引き上げ、アメリカの資金がイギリスへ流れた。

 

1929年10月

ニューヨークウォール街の群衆

そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出た。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

シカゴバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれた。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し[11]、株価は平均43ポイント[12]下がり、9月の約半分になった。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった[13]

10月29日は後に「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。1928年アメリカ市場の投信株の取引高は1万株しかなかったが、翌年に11万株を超えた[7]。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。

過剰生産によるアメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における世界恐慌は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。

証券パニックから世界恐慌へ