東京都 = 大石内蔵助
唯一足軽寺坂信行 =沖縄県
明治初期道府県制度確認予定
赤穂事件の人物一覧 【四十七士=都道府県対応推理】Ⅰ主要人物
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赤穂事件の人物一覧(あこうじけんのじんぶついちらん)では、赤穂浪士(あこうろうし)をはじめとした、赤穂事件に関連する人物に関して記載する。
目次
赤穂浪士
赤穂浪士(あこうろうし)は、元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜に旧主浅野長矩の仇[† 1]である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害した(赤穂事件)元赤穂藩士大石良雄以下47人の武士である。
概要
赤穂浪士の扮装。歌舞伎などの創作において広まった典型的な討ち入りの装束だが、史実ではない。
かつては赤穂の牢人(浪人)といわれることが多かったが、明治の中期から赤穂義士(あこうぎし)と呼ばれ、忠孝の教えの観点から戦前は全国的にも赤穂義士の名称が一般的だった。明治以降壬生浪士の影響から浪人を浪士と称することもある。戦後、大佛次郎の小説がテレビドラマ化されてからは、赤穂浪士の方が周知されている。四十七士(しじゅうしちし)ともいう。
四十七士ではなく、四十六士であるという説もある。この問題はすなわち討ち入り後、泉岳寺にある長矩の墓に行くまでに突然姿を消した足軽寺坂信行が、逃亡者であるのか、それとも何らかの理由で同志達の許可を得たうえで離れた者であるのかの問題である。逃亡者とみなす見方は四十六士となり、大石良雄から何か密命を受けて離れたとする見方では四十七士と呼ぶ。寺坂の逃亡説は室鳩巣の「赤穂義人録」以来諸説ある。徳富蘇峰も「近世日本国民史・義士篇」でしつこく断罪している[1]。しかし、討ち入りの時吉良邸の玄関に掲げたという「浅野内匠頭家来口上書」[† 2][2]には口上を述べた後」大石以下47人が連名しているが、末尾に吉田忠左衛門与(くみ)足軽寺坂吉右衛門が名を連ねている[3]。
なお、浪士のうち赤穂(播磨国赤穂郡)出身者は大石良雄を含めて半数程度で、次いで多いのが常陸国の真壁(真壁郡)や笠間(茨城郡)の出身者である。赤穂浅野氏の家臣団の中心は、正保2年(1645年)に浅野長直(長矩の祖父)が赤穂に転封される以前の真壁藩・笠間藩時代に形成されているためである。吉田兼亮・小野寺秀和・堀部金丸など高齢者の浪士はここの生まれが多い。そのため同地には現在も浪士の出身家系の旧家が残り、浪士の遺品も多く伝わっている。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)の江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。対して、吉良義央には何の咎めもなかった。ことに即日切腹には、当日の城中にさえ批判の空気が存在した[4] 。
家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは、喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持った。赤穂城での評定では幕府に恭順して開城するか、抗議して篭城か殉死かで紛糾した。大石良雄は殉死を希望する藩士たちから誓紙を取り、吉良義央の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求める義盟を結んだ。赤穂城は開城され、旧藩士たちは浪人となり江戸や上方の各地へ散った。
大石良雄の御家再興運動に多くの旧藩士たちが集まり、義盟への参加者は120名に達した。大石良雄は浅野長矩の弟浅野長広(大学)を擁立しての御家再興を目指したが[† 3][5]、堀部武庸(安兵衛)ら江戸の急進派はこれにあきたらず、吉良義央への仇討ちを強硬に主張した。大石良雄は各方面に御家再興を働きかけるが容易ではなく、その間に浪人となった旧藩士たちの生活も困窮し、脱落者も出始める。
元禄15年(1702年)7月18日、浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、赤穂浅野家再興は絶望的となった。その10日後の7月28日[† 4]大石良雄は京都円山で会議を開き、吉良義央への仇討ちを決定した(円山会議)。大石良雄は仇討ち決定に際して、同志の向背を確かめるべく義盟への誓紙を一旦返却させた(神文返し)。すると、高禄の者をはじめ半数以上の同志が脱落してしまった。誓紙の返却を拒んだ者にのみ仇討ちの真意を伝えさせた。最終的に同志は47人となった。この後の大石の行動は速く、散らばった同士を次々と江戸に下した。そして自らも3か月後に江戸に向かい、10月26日、川崎在の平間村に着くとそこから討入りの訓令を下した[6]。
赤穂浪士が葬られた泉岳寺では、現在も毎年討ち入りの日に義士祭を催している(討ち入りの日は元禄15年12月14日(1703年1月30日)深夜[† 5]。また元禄15年12月15日は西暦1703年1月31日であるが、義士祭はグレゴリオ暦の12月14日に行われている)。