マインドコントロール
マインドコントロール(英: Mind control)とは、他人の思想や情報をコントロールし、個人が意思決定する際に、特定の結論へと誘導する技術[1]を指す概念である。マインドコントロール論、マインドコントロール理論とも呼ばれる。「マインドコントロール」の存在について、心理学的にも医学的にも宗教学的にも議論されたが、理論的学問的な根拠はなく、虚構や似非科学とも言われ、一般社会で言われる心理操作(マインド・トリック)ないしはコマーシャルメッセージと同じ手法であると結論づけられている[2]。マインド・コントロール論は、脱会者と支援者の証言がもとであるため、データ的に偏りがあるとされる[3]。
目次
1発祥
1.1日本
2主張
2.1学者
2.2脱会者
3応用
4信教の自由との問題
5裁判事例
6脚注
7参考文献
8関連項目
9外部リンク
発祥
1970年代のアメリカにおいて、「マインド・コントロール理論」が生まれ、信者と利害関係にある反カルト(アンチカルト)集団が、「信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するため」に、「対抗的ドグマ」として用いられ,当初から価値中立的な使用はされなかった[4]。まったく別人のようになった理由は、複数の解釈が成り立つものであり、心理操作のみが要因とは言えない[4]。
1970年代後半-80年代にかけて、社会心理学的操作理論としての「マインドコントロール理論」についての議論が尽くされた結果、カルト的な行動支配とは限らない、一般的な心理操作技術であるという結論に達した。つまり、マインドコントロールは、通常の心理操作、すなわち、消費社会におけるコマーシャルと同じ手法を指す[5]。
日本
統一教会の信者の奪回・脱会を目的とした弁護士らからなる反カルト集団により、概念が持ち込まれた[4]。反カルト集団の代表弁護士紀藤正樹によると、1992年の統一教会の合同結婚式に参加した山崎浩子が、翌1993年に婚約の解消と統一教会から脱会を表明した記者会見で、「マインドコントロールされていました」と発言したことと、同日発売の、元統一教会員による『マインド・コントロールの恐怖』という本により、“マインドコントロール”という言葉が広く認知されるようになった、としている[6][7]。
1995年にオウム真理教事件が起こると、マスコミや反カルト運動家は、犯罪を犯した信者の心理状態を示す格好の言葉として使用した[4]。さらに、信者の裁判で、一部の反カルト集団の心理学者が心理鑑定の際に、「マインド・コントロール論」を根拠としたため、教団側がマインドコントロールを行っていたと、社会的に認知されてしまった[4]。また、一部の弁護士による法的戦術として、被告の信者が「マインドコントロールされていた」と主張し,「通常の判断能力が欠損しており、責任能力をかけていた」などの弁護がされた[4]。そのため、反社会的宗教団体が信者を動員して犯罪をなした理由として、ジャーナリズムにより宣伝され、世論に根付いた[4]。
理論的な根拠がないにもかかわらず、社会的に概念が受け入れられている背景としては、現代国家において、「消費者の欲望を喚起して需要を掘り起こすコマーシャリズムの戦略」が常にとられているために、「いつの間にか誰かに操られているのではないか」という感じる体験は特殊でないためとも言われる[8]。
主張
学者
- 北海道大学教授をつとめる宗教学者櫻井義秀は、「マインド・コントロールという社会心理学的操作の理論は、特殊カルト的行動支配に限定されないコミュニケーション過程に一般的な心理操作技術であり、この操作自体を問題にするのであれば、消費社会におげるコマーシャリズム批判に行き着かざるを得ない。」、「マインド・コントロールという理論は、態度変容を遂げた人物と利害関係を持つアンチ・カルト集団が、信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するために用いている議論であり、立論の当初から価値中立的なものではなかった。」、「筆者はこの問題を等閑視できないと考え、カルト、マインド・コントロール論を批判してきた。その第一の理由は既に述べたように、宗教社会学の1980年代までの議論を消化していれば、カルト、マインド・コントロール論は、アンチ・カルト集団による対抗的ドグマ以外の何ものでもないことが明白であるにもかかわらず、これをあたかも最新の心理学ないし宗教研究の知見として紹介し実践理論としての使い勝手の良さを巧みに利用したマスメディアの論調に一石を投じる必要性を感じたからであった。」と述べている [9]。
脱会者
- マインド・コントロールを受けていたと主張するスティーヴン・ハッサンによると、「この技法は、ある特定の目的に向かうよう、そのように思い、考え、行動するべく誘導するものである。本来、自由であるべき個人の行動原則を誘導・操作するため、道義的な問題をはらむ部分があり、マインドコントロールの手法に対する批判が多々あるが、この技法を利用して社会規範意識の刷り込みによる犯罪者の矯正や、心理的に手を出してしまいやすい薬物依存に悩む人の意識改革を目指すグループも存在する」という[10]。
応用
自己暗示の一つとして能力開発への応用すること[11]や犯罪抑止やタバコやアルコール等を含む薬物依存の治療などに効果的だと考える動きもある[12]。
信教の自由との問題
基本的人権には「信教の自由」があり、これは当人が如何なる信教を支持しようとも、それは当人の自由であるという理念が存在する。ただ、これがマインドコントロールの問題では、反カルト集団の弁護士は、当人の価値観が操作され、健全な判断能力を失っていると主張する。この場合において、信教の自由と当人の保護という問題の狭間で、議論も見られる。
統一教会の裁判では、反カルト団体の裁判戦術として、同団体がマインドコントロール手法を用いているという訴えがなされ、脱会説得をめぐり、当人の自由意志が「信用できない」「責任能力がない状態」等の主張がなされた。当人の主観(→客体)とっては「不当な拉致監禁や人権に対する侵害」となり、一方の当人がマインドコントロールされているとみなしている側にとっては「保護と説得による霊感商法からの離脱」となる。当人が信教の自由を訴え、第三者がマインドコントロールを主張する場合には、憲法で保障されている権利侵害にあたる可能性もあるため、慎重な判断が求められる。
裁判事例 【1995/メトロ320警視総監330】
- オウム真理教の裁判【騒苛と学会光明盗モルモンサントモルモット実験奴隷社畜亡霊皿利魔】
- 死者12人を出した「地下鉄サリン事件」の実行犯、横山真人被告に対し、1999年10月1日、東京地裁は「マインドコントロール下の能力減退は認められない」として死刑判決を出した。
- 2000年 6月6日、「地下鉄サリン事件」など10事件で起訴されたオウム真理教の井上嘉浩被告に対して、東京地裁は、検察の死刑求刑に対し無期懲役との判決を下した。井上弘通裁判長は「死刑を選択することは当然に許されるべきで、むしろそれを選択すべきであるとすらいえる」としながらも、西田公昭の「修行を通してマインドコントロールを受け、松本被告の命令に反することができなかった」との鑑定結果を受け、「有利な情状の一つとして評価できる」として極刑選択を避けた。但し、控訴審では死刑判決を受け、2009年12月10日に上告棄却[13]、2010年1月12日に上告審判決に対する訂正申し立てが棄却され[14]、死刑が確定した。
- 「統一教会」(統一協会)に対する青春を返せ訴訟
- 元「統一教会」の信者が、教団のマインドコントロールという不当な手段を用いての勧誘、教化の違法性を問う裁判。教団側は、マインドコントロールというものの存在を否定し、入信は自由意思によるものであると主張してきた。訴訟の当初、裁判所は「原告らの主張するいわゆるマインドコントロールは、それ自体多義的であるほか、一定の行為の積み重ねにより一定の思想を植え付けることをいうと捉えたとしても、原告らが主張するような強い効果があるとは認められない」(1998年3月26日 名古屋地裁)などとして元信者側の主張を退けてきたが、1997年4月19日の奈良地裁の「『統一教会』の献金勧誘システムは、不公正な方法を用い、教化の過程を経てその批判力を衰退させて献金させるものと言わざるを得ず、違法と評価するのが相当である」とした判決や、2001年 最高裁において「統一教会」の上告が棄却され、元信者側の勝訴として確定した広島高裁岡山支部判決では、不法行為が成立するかどうかの認定判断にマインドコントロールという概念は使えないとされる。判決では「教義の実践の名のもとに他人の法益を侵害するものであって、違法なものというべく、故意による一体的な一連の不法行為と評価される」と記される[15]。
- 学者からは「マインドコントロール論」が否定されており、法律も存在しないが、反カルト集団の弁護人が「マインドコントロールされていたために、ふつうの判断ができる状態ではなかった」と責任能力の欠如を主張するために裁判戦略としてしばしば用いられる。判例のレベルで概念の蓄積が成されている場合もあるが、国によって態度に違いがある。同じ国でも正反対の判決が出る場合もあり、未だ微妙な領域といわざるを得ない。
脚注