唯物論 Ⅰ【前半】目次 概説 唯物論の歴史
日本では、西欧思想の紹介・導入時期には、「物質学」「実質学」と訳されていた。19世紀後半、精神主義的思想の確立を図る者たちによって “唯物論” という訳語が定着される。社会主義的・共産主義的思想に随伴したものではない本格的論考は、20世紀、第1次世界大戦後、私費留学生たちが帰国するようになってのち、現れるようになった。1932年に結成された唯物論研究会において、戸坂潤らは物質を基底的とする唯物論を唱えた[8]。
20世紀を通じて心の哲学で最大の影響力をもってきた学説は唯物論だった、とサールは著書で概観した[9]。唯物論では「心的状態があるとしても、それはある意味でなんらかの物理的な状態に還元できるはずだ。それ以外にない」と考える[9]。この唯物論は哲学・心理学・認知科学などの専門領域の専門家らの間では時代の宗教と言ってもいい状態である、とジョン・サールは解説した。唯物論者はなかば宗教的とも言える信仰心によって自分の正しさを信じきっているのだが、実はこれまでけっして満足ゆく説明や、他の哲学者、そして唯物論者自身に受け入れられるような説明を定式化できないでいる、その点で興味深い、とサールは指摘する[9]。というのは、世にとって本質的な心的な性質、つまり哲学的な立場がどうであれ、誰もがその存在を知っている《心》的な性質を扱うことを放棄してしまっている、だがその現実に絶えず直面してしまっている、とサールは指摘した[9]。
20世紀に学者の世界でまず影響力を持ったのは行動主義と呼ばれる唯物論であり、それは当初「心とは身体の行動にすぎない」と主張された[9]。つまり、心的なものを構成する身体行動の他には何も存在しない、と主張した。これには「方法論的行動主義」と「論理的行動主義」の2種類がある、とサールは指摘した[9]。
方法論的行動主義は心理学上の運動で、「心理学は客観的に観察できる行動だけを研究すべきだ」と主張した[9]。この行動主義者は、入力される刺激と出力される反応(=行動)の相互関係を示す“法則”を発見することを期待していた[9]。こうした方法論的行動主義者として著名な人物としてはジョン・B・ワトソンやB・F・スキナーがいる[9]。(彼ら自身の主張はともかくとして)彼らのような主義を標準的な教科書では「方法論的行動主義」としているという[9]。この主義は数十年にわたって大きな影響力を及ぼした[9]。だが20世紀なかばには行動主義は、それ自体が方法論的な困難により行き詰まり、さらに痛烈な批判も浴び、全般的に弱体化し、結局は破棄されるに至った[9]。チョムスキーなどからも痛烈に批判されたのであり、「心理学を研究するために行動を研究する」という発想は、「物理学を研究するために計測を研究する」というのと同じくらいばかげている、との指摘であり、証拠と研究対象自体を混同するのは間違っている、という批判である[9]。心理学の研究対象は人の《心》であって、行動は証拠になるにしても、それ自体は心そのものではない、という指摘である[9]。こうしてこの主義は破棄された[9]。
論理的行動主義はまず哲学運動として現れ、ある人物の心的状態に関する言明はその人の現実の行動や可能な行動に関する一連の言明とまったく同じ意味を持っていて、心的状態に関する言明は行動に関する言明へと翻訳できる、と主張し、その言明は行動に関する一連の仮定的な言明(たとえば「その行為者はかくかくしかじかの条件のもとではそうするだろう」とか「かくかくしかじかの条件ではそう言うだろう」といった行動に関する言明)に翻訳できるはずだ、と主張した[9]。論理的行動主義もその難点が注目の的になった[9]。ひとつの難点は、そもそも、どうしたら心に関する言明を行動に関する言明に翻訳できるのか?、という問題に多少なりともまともな説明を与えられた者が誰ひとりとしていなかったことである[9]。「 pならばq 」の前件pをどうやって特定するのか? 循環論法に陥らずにpを特定する方法があるのか? ということについて数々の難問がたちはだかったのである[9]。この主義では例えば『「雨が降るだろう」というAさんの信念は、Aさんによる雨回避行動についての言明へと還元的に分析される』と説明したが、問題なのは、諸々の行動へと還元できるのは、あくまで「Aさんは濡れたくないという欲求を抱いている」と仮定した場合に限られるということだった[9]。そこには循環論法があるように思われる、とサールは指摘する。この分析では、信念は行動だけに還元されたのではなく、実際には《行動》と《欲求》に還元されてしまっており、結局、分析が必要な心的状態《欲求》が残ってしまう[9]。同様に欲求を分析しても還元の手順によって《信念》が登場し、堂々めぐりになる[9]。二つ目の難点は、心的な状態と外的な行動のあいだには因果関係がある、という我々の誰もが認識している直観に反していることだった。行動主義は実質上、外的な行動以外に内的な経験があることを否定していたからである[9]。さらにまた、指摘された行動主義の難点は、我々の思考や感情や痛みやむずがゆさまでも、「行動に等しい」とか「行動への傾向性に等しい」などと仮定するような、理にかなわないことを論理的行動主義がしていたことである[9]。痛みの感覚と痛みの感覚によっておこる行動は別ものである[9]。行動主義者になるためには(現実に反して)自分が知覚麻痺のふりをする必要があり、それはあまりに荒唐無稽なので、行動主義はしばしば人々からからかわれているという[9]。
通念としての「唯物論」
マルクス主義がその理論の基盤に唯物論を置いていることもあり(史的唯物論)、ヨーロッパ(イタリアなど)やアメリカの人々の多くや、日本の伝統的な人々のなかには、「唯物論 即イコール マルクス主義」あるいは「唯物論 = 社会主義」ととらえ、唯物論="資本主義陣営の敵"、であるかのような反応を示すことが少なからずあるが、唯物論とマルクス主義・社会主義の間の結びつきは必然的なものではない。「唯物論者かつ社会主義者」もいれば、「唯物論者かつ資本主義者」もおり、「唯心論の(非マルクス主義的な)社会主義者」もありうる。