日本の貨幣史 Ⅶ【中】昭和恐慌 ブロック経済の通貨 

 
軍票

フィリピンで日本軍が使用した10ペソ軍票(1942年)

日中戦争以降は、軍が占領地や勢力下で物資調達に用いる軍用手票(軍票)が増加した。中国大陸では日中戦争開戦の4ヶ月後に軍票の使用が始まり、東南アジアでは1941年(昭和16年)のマレー作戦後に南方外貨表示軍票が発行された。1942年(昭和17年)には南方開発金庫が設立され、1943年(昭和18年)に南方開発金庫券(南発券)を発行したが、実態としては軍票と同様に扱われた。日中戦争での軍票は円標示で、法幣に対する物資争奪戦に用いられた。南方占領地の大東亜戦争軍票や南発券は現地通貨を標示して、物資を現地自活するために用いられた。いずれの地域でも、輸送力の低下や物資の不足により増発され、特に1943年(昭和18年)以降は濫発によるインフレーションが各地の経済を混乱させた[131][132]

ブレトンウッズ体制

1944年(昭和19年)にアメリカのブレトンウッズで連合国通貨金融会議が開催され、大戦後の国際金融についての協定が結ばれた。これがブレトンウッズ協定であり、金との兌換性はUSドルのみが持ち、各国の通貨はUSドルとの固定相場制をとるという体制だった。金とドルの交換レートは、金1オンス=35USドルと定められた。戦後の日本の通貨も、ブレトンウッズ体制にもとづいて定められることになる[133]

戦後新紙幣

百円札

1945年(昭和20年)8月15日に日本は第二次世界大戦で敗戦を迎え、沖縄県や奄美群島では、アメリカ軍の軍票であるB円が1958年まで流通した[134]連合国軍占領下の日本は新しい紙幣を発行することになり、新しい図柄の検討は民間の印刷会社も参加できるコンペ形式で20日間の公募が行われた。11月の審査には大蔵省、日本銀行関係者、画家の藤田嗣治杉浦非水らが参加した。審査の結果、千円札の図柄には新薬師寺伐折羅大将五百円札には広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像が選ばれ、戦争で焼失を逃れた仏像が心をなごませるというのが選考理由であった。高額紙幣は当面必要がないため百円札が弥勒菩薩、十円札伐折羅大将として決定したが、この案はGHQによって不採用とされた。不採用の理由は、伐折羅大将は戦勝国に対する怒り、弥勒菩薩像は敗戦の悲哀を表現するように見られるというものであった。そこで百円札は従来の聖徳太子を継続して、十円札は国会議事堂を使用した。インフレーションが進行して紙幣の供給が急務とされたが、物資や機械の不足により、民間の印刷会社も動員して印刷が行われた[135]

高度成長