ケネディ大統領暗殺事件 Ⅹ【後】暗殺事件の反応
国葬
国会議事堂を後にして運ばれていくケネディ大統領の棺
ホワイトハウスを後に砲車に載せて行進する大統領の棺
その後を歩いて教会に向かうジャクリーン(中)、ロバート(左)、エドワード(右)の3人
ベセスダ海軍病院での検死後にケネディの遺体はマホガニー製の棺に移されて、11月23日4時24分にホワイトハウスに無言の帰宅をしてイーストルーム[注釈 87]に安置された。23日10時にイーストルームでケネディ家及び親しい友人のみの密葬が行われ、翌24日午後、犯人とされたオズワルドが撃たれたという情報が入った直後に国旗に覆われたケネディの棺は国会議事堂まで運ばれた。議事堂の円形大広間(ロタンダ)に棺が安置され、国会議員らによる追悼式が行われて、マンスフィールド民主党上院院内総務の追悼の辞、ジョンソン大統領からの献花、そしてジャクリーン夫人と娘キャロラインが棺の前に膝まずき、棺を覆う国旗にキスをした。
式が終わってからは一般の弔問となり、昼夜に渡っておよそ250,000人の人が弔問に訪れた。ケネディの弔問をするため10時間もの間、凍り付くほどの気温の中で行列に並び、その行列は40ブロック先にまで及んだ。この弔問は翌25日の葬儀直前の9時まで続いた。
ケネディの追悼行事は直ちに世界中で行われ、各国の米国大使館には多くの人々が弔問に訪れた。合衆国政府はケネディの国葬の日、11月25日(月)を全国民が喪に服す日とすることを宣言した。
葬儀は、25日10時20分にホワイトハウスから国会議事堂に車で向かい、10時40分に円形大広間でジャクリーン、ロバート、エドワードの3人が棺に祈りを捧げてから始まった。ホワイトハウスには世界各国から指導者が訪れていた。フランスからドゴール大統領とクーヴ・ド・ミュルヴィル外相[注釈 88]、イギリスからエリザベス女王夫君のエジンバラ公とヒューム首相とウィルソン労働党党首[注釈 89]、西独からエアハルト首相とブラント市長[注釈 90]、日本から池田勇人首相と大平外相、韓国から朴正煕大統領[注釈 91]、ソ連からミコヤン第一副首相、ウ・タント国連事務総長など、92か国から首脳・政府高官等220人が国葬に参加していた。国内ではトルーマン元大統領、アイゼンハワー元大統領、ニクソン前副大統領、ロックフェラーニューヨーク州知事、ゴールドウォーター上院議員、ウォレスアラバマ州知事、マーティン・ルーサー・キング牧師、ジョン・グレン中佐など、これらの要人がホワイトハウスに参集している頃に、10時55分頃に葬送の列が議事堂からホワイトハウスに向かうペンシルベニア通りを行進して、11時30分すぎにホワイトハウスに到着すると、すぐにジャクリーン、ロバート、エドワードらが車から降りて、棺が砲車に載せられ葬送のドラムの音とともに進んでいく中で、その後についてホワイトハウスからセント・マシューズ教会まで歩いて行った。外国の首脳もホワイトハウスからその後を追って歩いて行進した。これはジャクリーン夫人の希望であった。
棺に覆われていた星条旗が畳まれジャクリーン夫人に渡されて、枢機卿に謝辞を述べて墓を去るジャクリーン夫人。横にロバート・ケネディ。(1963年11月25日)
ホワイトハウスからの葬列は、スコットランドのバグパイプ隊がアイルランドの曲を奏でる中を、まず海軍が先導して、カトリック司祭が2名、その後ろから6頭の馬に引かれて大統領の棺を載せた砲車、大統領旗を持った旗手、誰も騎乗しない馬、その後をジャクリーンとロバートとエドワードの3人が先頭で歩き、その後を米国政府首脳(その中にはジョンソン新大統領も)、そして各国首脳が距離にしておよそ2キロメートルの行程を歩き、セント・マシューズ教会にほぼ12時頃に到着した。
暗殺事件から半年後に墓地を訪ねたジャクリーンとキャロラインとジョン・ジュニア(1964年5月29日)
セント・マシューズ大聖堂での告別式ではクッシング枢機卿が司り、テノール歌手ルイジ・ベナが「アベマリア」を歌った[注釈 92]。告別式が終わり、セント・マシューズ教会の階段下で葬列が出発する際に、ケネディ大統領の長男であった当時3歳のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ・ジュニアが目前で砲車に載せられて曵かれゆく父の棺に対し挙手の敬礼をした。
やがて13時15分に棺は埋葬のために葬送のドラムの音とともにアーリントン国立墓地に向かって出発した。参列者は今度は車に乗って墓地に向かった。14時30分には墓地予定地[注釈 93]に到着。墓地では埋葬式が行われて、3台の礼砲が21発の轟音を放ち、礼装の兵士達がそれぞれ3発の銃声を響かせ、そして陸軍軍曹が葬送ラッパを吹き、その悲しみの音が暮色のアーリントンの丘に吸い込まれていった。 そして永遠の炎にジャクリーン、ロバート、エドワードが松明で点火し、棺を覆っていた国旗がジャクリーンに手渡されて葬儀は15時に静かに終わった。
ケネディの葬儀は日本ではNHKで26日午前7時-8時 (JST) に衛星中継でダイジェスト版が放送され、ビデオリサーチ・関東地区調べで38.5パーセントの視聴率を記録した。
政府による公式調査
ケネディ大統領暗殺の翌日11月23日にFBIのフーバー長官からジョンソン新大統領に事件の報告が行われ、オズワルドの単独犯行の可能性が強いことが伝えられたが、11月25日にジョンソンはフーバー長官に改めて大統領暗殺事件の全容についての公式報告を求めた。これはこの時点でFBIからの詳細な公式報告を受けてそのまま国民に公表することで事件の調査を終了するつもりであった。ところがテキサス州の司法長官がケネディとオズワルドの死をめぐる事実関係を糾明する査問会議を行うことを発表し、翌26日に合衆国上院が調査特別委員会を設置することを発表し、そして翌27日には合衆国下院が独自に特別委員会の設置を発表した。大統領の衝撃的な暗殺、犯人とされた被疑者を警察署内で殺されるという異常な展開、そして動機も背後関係も一切謎のままとされて、事件があったテキサス州は連邦に対する強い州権意識から、そして議会は三権分立の立場から独自に調査に入る構えを示した。これに対してジョンソンは11月29日に暗殺事件の調査を大統領直属の委員会を設置して早急に行い、国民の間に広がる疑惑や不安を払拭することを決めた。これで上下両院の独自調査は結局延期されて、テキサス州の調査も大統領直属の委員会に資料を提出することとなった。そしてこの調査委員会の委員長に起用されたのが当時の連邦最高裁判所長官アール・ウォーレンであった。
この委員会はウォーレン委員会と呼ばれ、1963年12月5日にスタートして、翌1964年9月24日に調査報告をジョンソン大統領に提出した。この調査報告はウォーレン報告と言われている。委員会の構成メンバーは最高裁判所長官(ウォーレン)、上下両院の与野党議員(リチャード・ラッセル[注釈 94]、ジョン・クーパー[注釈 95]、ヘイル・ボッグズ[注釈 96]、ジェラルド・フォード[注釈 97])、前CIA長官(アレン・ダレス[注釈 98])、民間人(ジョン・J・マックロイ[注釈 99])の7名であった。
FBIは捜査を行った最初の機関だった。暗殺のわずか17日後、1963年12月9日にFBIの報告書はウォーレン委員会に提出された。FBIは三発だけが暗殺時に発射されたと報告して、一発目はケネディ大統領に命中し、二発目がコナリー知事に命中、三発目が大統領の頭部に命中し彼に致命傷を与えた。そして三発ともリー・ハーヴェイ・オズワルドが発射したと報告した。FBIは総計で25,000回の面接、約2,300項目と25,400頁にわたる報告書を委員会に提出した。シークレットサービスについては1,550回の面接、約800項目と4,600頁にわたる報告書を委員会に提出している。
委員会はこの後に独自調査として延べ552人の証人喚問を行い(委員が出席して行う証人尋問は94名)[注釈 100]、この中には、ジャクリーン夫人、コナリー知事夫妻、オズワルドの母マルガリート、そして妻マリーナも喚問している。やがて1964年9月に全文約296,000語、全888ページに全26巻の膨大な関連資料が付いた報告書がまとめられた。
ウォーレン報告
9か月の調査後、1964年9月27日にウォーレン委員会報告書が公表された。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。委員会の結論の骨子は
- ケネディ大統領暗殺犯はオズワルドただ一人である。
- オズワルドはまた、ダラス市警のチピット巡査をも殺害した。
- そのオズワルドはジャック・ルビーに単独で殺害された。
- この暗殺事件に絡む陰謀は内外を問わず一切なかった。
- 大統領を撃った全ての銃弾はテキサス教科書倉庫ビル6階の窓から発射された。
- 大統領に向かって発射された銃弾は合計3発である。1発は大統領の背中から胸へ抜け、前方に座っていたコナリー知事の胸、手首、左の太ももを傷つけた。もう1発は大統領の頭部に命中してこれが致命傷となった。あとの1発は命中しなかった[57]。
オズワルドの単独犯行