ケネディ大統領暗殺事件 Ⅶ【右】ケネディ兄弟への通報 ケネ…
ジョンソン副大統領の昇格とワシントンへの帰途
暗殺された直後エアフォースワン内で第36代大統領の就任宣誓を行う副大統領リンドン・ジョンソン
リンドン・B・ジョンソン副大統領はケネディが乗ったリムジンの2台後の車に乗っていたが難を逃れ、パークランド病院で大統領の死に接して、シークレットサービスの警護を受けながら急遽ラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンに向かった。この病院を出た時と同時にCBSのウォルター・クロンカイトがケネディ死去の公式発表をテレビで伝えたが、クロンカイトが涙ぐんだ後に「ジョンソン副大統領はすでにダラスの病院を離れ、どこに向かったかは分からないとのことです。おそらく速やかに就任宣誓を行い、第36代合衆国大統領に就任する予定です」と語った。
そして副大統領はエアフォース・ワンに到着して、機内に入ってすぐに大統領専用電話を使って、アイゼンハワーとトルーマンの両元大統領に事態の説明をして全面的協力を求めた。そしてワシントンにいる閣僚4名[注釈 70]と大統領補佐官らに職場を離れないことを伝えた[注釈 71]。そしてジャクリーン夫人らが遺体とともに戻ってきた後に機内でアメリカ合衆国大統領の就任宣誓を行い、第36代大統領に昇格した[注釈 72][注釈 73]。この後に機内からハイアニスポートに電話してジョンソンとレディバード夫人から大統領の母ローズにお悔やみが伝えられた[41]。
ジョンソンとジャクリーン夫人らを乗せたエアフォース・ワン[注釈 74]は、ジョンソンの大統領就任宣誓が終わった後にダラスを飛び立ち、史上初めて2人の大統領を乗せてワシントンD.C.郊外のアンドルーズ空軍基地に着陸した。ケネディ大統領の遺体の入った棺は、空港の荷物搬送機で降ろされ、ジャクリーンと迎えに来てすぐに機内に入ったロバート・ケネディらもケネディの棺とともに同じ搬送機で降りて、ベセスダ海軍病院に搬送された。
ジョンソン新大統領は、その後にタラップを利用して降り、その場で新大統領としてのコメントを発表して「今は全ての人々にとって悲しみの時である。我々は計り知れない損失を受けた。私にとって、これは深い個人的な悲劇である。ケネディ夫人とそのご家族の悲しみを全世界が分かち合うものと思う。私は全力をつくす。神のご加護を」と述べた。ダラスからアンドルーズ空軍基地にケネディの遺体が戻り、空港でコメントを発表したジョンソン新大統領の強いテキサス訛りのある英語と、ケネディの小気味のよいボストン英語の対比に、アメリカ国民は、大統領交代を実感したという。
この後にジョンソンは空港からヘリコプターで飛び立ち、ホワイトハウスの南芝生に着陸した。この時にワシントンにいたマクナマラ国防長官、マクジョージ・バンディ特別補佐官、ジョージ・ボール国務次官が同乗して機内で国防と外交情勢の説明を受けた[42]。到着後にはフーバーFBI長官を呼び暗殺事件の捜査の進展状況を聞いている。また民主、共和両党の議会首脳とも夜にすぐに会談した。実はこの日はケネディ政権の閣僚10名のうち6名は日本で24日開催される予定の日米貿易経済合同委員会に出席するため太平洋上を飛行中であった[43]。ラスク国務長官・ディロン財務長官・ユードル内務長官・ホッジス商務長官・フリーマン農務長官・ウイルツ労働長官で、一行はホノルルで急ぎ引き返し、深い悲しみの中をケネディ大統領一行が戻った同じアンドルーズ空軍基地に、ほぼ7時間後の同日深夜(東部標準時12:42)に戻り、ラスク国務長官とは翌朝9時に新大統領は会議を行った。そしてジョンソンはその直後にアイゼンハワー元大統領とも会見している[44]。暗殺のショックを癒すひと時もなくこの日から大統領の激務が始まった。
司法解剖
大統領の遺体が搬送されたベセスダ海軍病院[注釈 75]では、海軍医学校研究所所長ジェームズ・ヒュームズ、海軍病院病理主任ソントン・ボズウェルと射創専門の病理医ピエール・フィンクの3名の病理医によって検死が行なわれた[注釈 76]。 解剖検視台に遺体を載せて4時間にわたった検視[注釈 77]で、大統領の傷は2つで、致命傷は頭蓋後頭部から入り頭部右側の一部15㎝位を吹き飛ばしていること、もう一つは頸部の付け根に入口があったが出口が分からなかった[注釈 78]。この2つの傷はいずれも頭蓋内側の傷口が小さく、抜け出た側に現れるそれより大きいスリ鉢状の傷が頭蓋外部につくものでなかったので、この2ヵ所で被弾したと結論を出している。また、弾丸が当った時の熱で表皮が剥離して皮膚が焼け焦げたり裂けることから、後部からの狙撃であるとしている。また、遺体のX線写真を14枚、白黒写真25枚、カラー写真27枚を撮影している[注釈 79][注釈 80]。検視報告書は、11月24日に作成されて、死因は頭部の射創で、2ヵ所にえぐられたような傷を受けて死亡した、銃弾は故人の後方の頭の位置より上の地点から撃ち込まれた、どちらの傷が最初かは不明である、頭蓋の傷は被害者が生存する可能性を全く排除するほど多大な損傷を脳に与えた、とされている。この検視報告書は24日夜にホワイトハウスでバークリー提督に手渡している。そして12月6日に補足説明書と合わせて解剖に関する一切の資料、写真や弾丸の破片などを全てバークリー提督に渡したとヒュームズは28年後に述べている[45]。
この司法解剖について、大統領死亡後にダラスではなくワシントンで行ったことで、ベセスダ海軍病院に到着した時に大統領の着衣が無かったこと[注釈 81]、頭蓋骨の欠片や脳の一部が遅れて運ばれて来たこともあって、担当したヒュームズとボズウェルはダラスで遺体解剖が行われていればその後の混乱はなかっただろうと述べている。この大統領の着衣も他の解剖資料とともに現在は国立公文書館に保存されている[46]。
時系列