ロッキード事件 最高裁判所判例 事件名外国為替及び外国貿易… 

 

児玉誉士夫

児玉誉士夫#ロッキード事件」も参照

児玉は事件の核心を握る中心人物であったにも関わらず、1976年昭和51年)2月から衆議院予算委員会において証人喚問が行われることが決定した直後に、「病気」と称して自宅に引きこもり、さらにその後は入院した東京女子医科大学病院にて臨床取調べを受けるなど、その態度が大きな批判を受けただけでなく、そのような甘い対応を許した政府や特捜に対する批判も集中した。その後、児玉の態度に怒ったポルノ俳優の前野光保が同年3月に児玉邸へのセスナ機による自爆テロを行ったが、児玉は別の部屋に寝ていて助かった。

その後の1976年3月13日に児玉は所得税法違反と外為法違反容疑で在宅起訴され裁判に臨むことになったが、1977年6月に1回だけ公判に出廷した後は再び「病気」と称して自宅を離れなかったために裁判は進まなかった。その後1980年9月に再度入院し、裁判の判決が出る直前の1984年昭和59年)1月に児玉は亡くなった。なお、児玉の死亡後の遺産相続では闇で収受した25億円が個人財産として認定された上で相続税が計算されている。

2016年の未解決事件のインタビューで堀田力は「核心はP3Cではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。(児玉誉士夫がロッキード社から)金を上手に取る巧妙な手口は証言で取れている。(そこから先の)金の使い方とか、こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い物凄い深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど、国民の目から見れば検察もっともっと彼らがどうゆう所でどんな金を貰ってどうしているのか、暗闇の部分を全部照らしてくれって。悔しいというか申し訳ない」と語っている。

当時、児玉が経営する企業の役員を務めていてセスナ機が突っ込んだ時も駆け付けた日吉修二(2016年7月死去。最後のインタビューとなった)によると事件発覚直後、児玉の秘書から急遽呼ばれ段ボール5箱分の書類をすぐに焼却するよう指示されたという。「これが天下の児玉だと思ってますよ。それはやっぱり日本の為の国士ですから、何か事を起こすのにはやっぱ資金がないとね。(資金の)必要があったんじゃないかなと思う。これやっぱりロッキード事件に絡んだ書類くらい思ってますよ。伝票みたいなものもあったし、色んな綴じてある書類もあったし、そんないちいちね見ながらこれは焼いていいか、それはやらない。私、意外と忠実だから言われたらピッと焼いちゃう。ただ燃やしているチラチラ見える中には、英語の物もあったと思います。」

児玉の通訳の福田太郎も死ぬ直前、「アメリカの公聴会で領収書の一部が公表されることになりました。ロッキード社から児玉さんに謝っておいてくれと電話がありました。」児玉は「それは話が違う。私に迷惑をかけないようにすると言っていたではないか。」と。秘書は、「それを否定しなければなりません。先生は知らないと言えばいい。判子と書類は燃やしてしまいます。」と供述している。

小佐野賢治