サウジアラビア Ⅰ【冒頭】目次・国名

 

歴史

詳細は「サウジアラビアの歴史英語版)」および「en:Saudi Arabia」を参照

現在のサウジアラビアの建国者アブドゥルアズィーズ国王。1945年ヤルタ会談の帰路にあったフランクリン・ルーズベルト米大統領と船上会談を行った。

この国が現在存在する地域には長い歴史があるが、サウード王家自体は1744年に中央アラビアのナジュド地方に登場している(第一次サウード王国)。この年、リヤドの近くにあるディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウード英語版)は宗教指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブと盟約を結び、新たな国家体制をつくった。この同盟は18世紀に形成され、今日のサウジアラビア王朝の統治の基礎となっている。続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトオスマン帝国そして他のアラブ部族ラシード家英語版)のジャバル・シャンマル王国と争い興亡を繰り返した(第二次サウード王国参照)。

第三のそして現在のサウード国家は、1902年に僅か22歳のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウード国王(サウジアラビア王国の初代国王)がサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回し、ナジュドで建国したものである(ナジュド及びハッサ王国)。

1915年にメッカの太守であったハシム家フサイン・イブン・アリーが、イギリス軍のトーマス・エドワード・ロレンスの協力を得てアカバを占領し、その後ダマスカスに進軍してヒジャーズ王国を建国したアラブ反乱

アブドゥルアズィーズは、1913年からハサー1921年ハーイル征服英語版)までにカティーフナジュドの残り(ナジュド・スルタン国)を制圧した。そして1926年までにヒジャーズ王国を制圧し(サウード家のヒジャーズ征服英語版))、1926年1月8日、アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となる。1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日に結ばれたジッダ条約アラビア語版英語版)によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立。1932年に主要地域のハサー、カティーフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。1934年サウジ・イエメン戦争イドリシ朝アスィール首長国英語版)を併合。

アブドゥルアズィーズの政治的成功も経済には及ばず、1933年サウジアラムコが設立され1938年3月にダーラン(ザフラーン)で「ダンマン油田」が発見されるまで国は貧しい状態だった(サウジアラビアの石油産業の歴史英語版))。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。

アブドゥルアズィーズは1953年の崩御を前に、拡大した一族ネットワークに依拠する他の地域の絶対的支配者たちと対する難しさに配慮して王位継承の規定を図っている。同年に次男サウードが父の死を受けて第2代国王に即位したものの、1960年代にサウードの経済的失政によって王国は危機に陥り、またエジプトナーセル大統領からの地域的な難問への対応にも失敗してしまった。その結果、1964年にサウードは退位させられ、代わって異母弟のファイサルが第3代国王に即位した。1973年第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。

1975年に家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサーイド英語版)王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継ぎ第4代国王となった。1979年イラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。武力で鎮圧したものの、以後、イスラム過激派に配慮した政策を行うことになった。1982年にハーリドが崩御して異母弟のファハド(「スデイリー・セブン」の一人)が第5代国王に即位する。

1990年イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。

2005年にファハドが崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが第6代国王に即位した。アブドゥッラー国王治世下では、スルターン、ナーイフ、サルマーンのスデイリー・セブンが3代続けて皇太子を務めた。

2015年1月、アブドゥッラーが崩御し、異母弟のサルマーンが第7代国王に即位、異母弟のムクリンが皇太子となった。同年4月、ムクリンは皇太子を解任され、ナーイフ元皇太子の息子のムハンマド・ビン・ナーイフが皇太子となり、第3世代王族への王位継承に初めて道筋をつけた。

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