南北戦争(アメリカ) Ⅳ【下半】戦中の変化

 

戦後

1860年(開戦時)と1864年(戦争終盤)の南北両国支配地の比較[20]
  合衆国 連合国
人口 1860 22,100,000 (71%) 9,100,000 (29%)
1864 28,800,000 (90%) 3,000,000 (10%)[21]
自由市民 1860 21,700,000 (81%) 5,600,000 (19%)
奴隷 1860 400,000 (11%) 3,500,000 (89%)
1864 ほとんどなし 1,900,000
兵士 1860–64 2,100,000 (67%) 1,064,000 (33%)
鉄道マイル数 1860 21,800 (71%) 8,800 (29%)
1864 29,100 (98%)[22] ほとんどなし
工業生産 1860 90% 10%
1864 98% ほとんどなし
兵器生産 1860 97% 3%
1864 98% ほとんどなし
綿花(梱) 1860 ほとんどなし 4,500,000
1864 300,000 ほとんどなし
輸出 1860 30% 70%
1864 98% ほとんどなし

詳細は「レコンストラクション」を参照

南部諸州は北部による軍事占領下におかれ、そのもとで黒人に投票権が与えられた。しかし1877年以降南部の白人が州内において主導権を取り戻すと、激しい揺り戻しが起きた。1890年代以降、南部各州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が立法化され、奴隷こそいなくなったものの人種差別はふたたび強化された。この人種差別状況が改善されるのは、1960年代の公民権運動を待たなければならなかった。

「奴隷解放宣言」により、南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放された。しかし、南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの活動を生み出す土壌となった。南部では現在もなお、南北戦争は「北部による侵略戦争」(The War of Northern Aggression:アメリカにおける南北戦争の別名)であったと主張する者もいる。

南北戦争の意味

南北戦争については次のような対立軸が考えられる。

  • 奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
  • 保護貿易を求める北部 vs. 自由貿易を求める南部

このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。

南部は独立を求めた。その理由は奴隷制の維持である。独立しなければ奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。モンロー主義を掲げ、欧州による経済支配を忌避した合衆国は、強い主権国家を標榜しており、南部諸州の離脱は認めがたかった。合衆国としての強い基盤を築くためには、独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。サムター要塞の戦いをきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。

結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。終戦後にアラスカは買収され、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に、中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。

また、日本においてはこの戦争で使われた中古小銃類が大量に輸入され、戊辰戦争で兵器として使われている。特にアメリカで発明されたガトリング砲は、南北戦争ではあまり使用されず、戊辰戦争ではじめて本格的に使われたと言われる。