薔薇戦争【イングランド内乱】Ⅲ 大貴族と軍隊
第一次内乱
第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日
第一次内乱初期(1455年) | |
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![]() ロンドン レスター コヴェントリー カレー |
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詳細は「セント・オールバーンズの戦い (1455年)」を参照
シェイクスピア作『ヘンリー六世 第1部』の一場面。ヨーク公リチャード(左)と同志が白いバラを選び、サマセット公エドムンド(右)は赤いバラを選んでいる。
Henry Payne画。1908年頃。
1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃そしてサマセット公エドムンドの宮廷一行は、公正な審理を求めるべくロンドンに向けて南下していたヨーク公リチャードの軍勢と対峙することになった[58]。5月22日、ロンドン北方のセント・オールバンズで両軍は衝突する。比較的小規模なこの第一次セント・オールバーンズの戦いはこの内戦における最初の会戦となった[59]。戦いはランカスター派の敗北に終わり、サマセット公は戦死し、ノーサンバランド伯をはじめとするランカスター派の主だった指導者たちは処刑された[60]。会戦の後、ヨーク派は評議員や従者たちに見捨てられて陣幕で一人たたずんでいたヘンリー6世を見つけ、国王は明らかに精神異常に陥った状態だった(国王は首に軽い矢傷を負ってもいた)[61]。
この勝利により、ヨーク公と彼の同盟者たちは再び影響力を取り戻した。10月、国王が執務不能なためにヨーク公リチャードが再び護国卿に任命され、議会は彼が国王に武器を向けたことについて不問に付した[62]。ヘンリー6世が回復すると、1456年2月にヨーク公は護国卿を解任された[63]。同年6月、ヘンリー6世はミッドランド地方に行幸をし、マーガレット王妃はランカスター家領や王太子領に近いコヴェントリーに宮廷を置かせた[64]。その後、サマセット公ヘンリー・ボーフォート(戦死したサマセット公エドムンドの子)が国王の寵臣として台頭するようになった。一方、ヨーク公はアイルランド総督に復職しており、またウォリック伯はカレー総督となり、おのおのヨーク派の拠点となしていた[64]。
首都と北イングランド(ネヴィル家とバシー家の戦闘が再開していた[65])での無秩序が広まり、南部海岸ではフランス海軍による海賊行為が増加していたが、国王と王妃は自らの地位を保つために動かなかった。一方、ヨーク派のウォリック伯(後にキングメーカーの異名を受ける[n 4])は商人の守護者としてロンドンで人気を集めるようになっていた[66]。
1458年春、カンタベリー大司教トマス・バウチャー(英語版)は両派の和解を調停しようとした。大評議会のために諸侯がロンドンに集められ、町は武装した従臣たちでいっぱいになった。大司教は第一次セント・オールバーンズの戦い以降の流血の私闘を解決するための複雑な和解策を話し合った。その後、3月25日の「聖母マリアの受胎告知の祝日」(Lady Day)に国王は「愛の日」(Love day)の教会行列をセント・ポール大聖堂に向かって挙行し、ランカスター派とヨーク派の貴族たちが手に手をとってこれに続いた[65]。教会行列と会議が終わるとすぐに陰謀が再開した。
カレー総督のウォリック伯はハンザ同盟やスペインの船を襲撃して人気を博すが、本国政府にとっては不愉快な行動だった[67]。彼は査問のためにロンドンに召還されたが、自分の生命を脅かそうとする企てがあると主張してカレーに戻った[67]。ヨーク公、ソールズベリー伯そしてウォリック伯はコヴェントリーの大評議会に召集されたものの、彼らは自らの支持者から切り離された上で逮捕されると危惧しており、これを拒絶した[68]。
戦闘の再開と合意令
ラドロー城、シュロップシャー南部
ヨーク公はネヴィル一族をウェールズ境界地方(英語版)のラドロー城に集結させた。1459年9月23日、ランカスター軍はヨークシャーのミドルハム城からラドロー城へ向かっていたソールズベリー伯の進軍をスタッフォードシャーのブロア・ヒースの戦いで迎え撃ったが敗北した。それからしばらく後の10月12日、合流したヨーク軍はラドフォード橋の戦いで、数に勝るランカスター軍と対戦する。戦いはウォリック伯がカレー守備隊から派遣したアンドリュー・トロロープ(英語版)の部隊が寝返ったためにヨーク軍の敗北に終わった[60]。ヨーク公はアイルランドへ戻り、長男のマーチ伯エドワード、ソールズベリー伯、そしてウォリック伯はカレーへ逃れた[69]。
ランカスター派が主導権を取り戻し、ヨーク公とその支持者たちは反逆罪で私権剥奪処分を受けて所領と称号を奪われ、ヨーク公とその子孫の王位継承権も欠格とされた[70]。サマセット公がカレーを接収すべく派遣されたが、ウォリック伯はカレー守り抜いた[67]。1460年1月から6月にかけて、ウォリック伯はカレーからイングランド沿岸部を逆襲して国王軍に打撃を与えた[71]。3月、ウォリック伯はヨーク公と作戦を協議するためにカレーを発し、エクセター公率いる国王艦隊をたくみにかわしてアイルランドに渡った[72][67]。
1460年6月、ソールズベリー伯とウォリック伯そしてマーチ伯エドワードが海峡を越えてサンドウィッチに上陸し、人望の厚いウォリック伯のもとに兵が集まり、7月にロンドン塔を除くロンドン市街を制圧した[73]。コヴェントリーの宮廷にいた国王と王妃は兵を軍隊を召集すると、ヨーク派に対するべくヘンリー6世の軍は南下し、マーガレット王妃はエドワード王子とともにコヴェントリーに留まった[73]。7月10日のノーサンプトンの戦いでウォリック伯は、グレイ卿(英語版)の裏切りもあって[73]、ランカスター軍を撃破できた。この戦いで、ランカスター派のバッキンガム公ハンフリー・スタフォード、シュルーズベリー伯、エグリモント卿、ボーモント卿らが戦死した。ヘンリー6世はまたもヨーク派に捕らえられ、彼は明らかに精神的な異常に見舞われている様子だった。国王を手中に収めたヨーク派はロンドンに凱旋する。
この軍事的成功を踏まえ、ヨーク公リチャードはランカスター家系の非合法性を根拠とする王位請求へと動いた。ウェールズに上陸したヨーク公とその妻セシリーは国王と同じ形式でロンドンに入城した[40]。10月に開催された議会でヨーク公は王座を占めようとするが制止され[74]、王位請求を宣言するものの、諸侯たち、ソールズベリー伯やウォリック伯までもが、依然としてヘンリー6世に対する忠誠義務を捨ててはおらずヨーク公に同調しようとはしなかった[75]。
ヨーク公は、自らがランカスター家より兄の血統にあたるライオネル・オブ・アントワープの子孫であることを根拠に、より優位の王位継承権を有すると主張する文書を貴族院に送り、重ねて王位を請求した[76]。議会における長い議論の後に、妥協案である「合意令」(Act of Accord)が成立した。ヨーク公がヘンリー6世の王位継承者と認められ、6歳のエドワード王子の継承権は排除された[77]。この取り決めは彼に要求した大部分を与えており、彼は護国卿に就任し、ヘンリー6世の名の下で全土を支配しえた。