南北戦争(アメリカ) Ⅱ【中半】開戦・開戦時の状況・ 

 

東部戦線

詳細は「東部戦線 (南北戦争)」を参照

南北戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては東海岸の東部戦線と、アパラチア山脈以西の西部戦線とに大別することができる。そして、南北戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは東部戦線の方だった。これは、東海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、北部のワシントン・南部のリッチモンドの両首都も東部に位置していたためである。さらにこの両首都は直線距離でわずか160kmほどしか離れておらず、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。北部のワシントンなどはポトマック川を挟んで南部領と隣接している状態であり、自然と両軍ともに相手の首都をめざし進撃することが多かった。こうして、この両都市間の狭い土地で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。

当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3か月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。しかし、南北の最初の本格的な軍事衝突となった1861年7月の北軍のバージニアへの侵攻は、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い、7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫し、戦争の長期化は避けられない情勢となった。

1862年3月、ジョージ・マクレラン率いるポトマック軍がリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻した。しかし七日間の戦い6月25日 - 7月1日)で、南軍のロバート・E・リー率いる北バージニア軍に大損害を与えたものの、現有戦力での攻略は無理と見て退却した。連動してジョン・ポープ率いるバージニア軍[17]もバージニアへ侵攻するが、第二次ブルランの戦い8月28日 - 8月30日)でリーに敗北した。戦勝の勢いでリーはメリーランドへの侵攻を試みるが、アンティータムの戦い9月17日)の結果、後退を強いられた。

戦局が持ち直したのを見た大統領リンカーンは同年9月、奴隷解放宣言を発した(本宣言は翌1863年1月)。この頃からリンカーンは、奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようになり、その成果もあって連合国がイギリスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった。

1863年、リーは再度の北部侵攻に出たが、ゲティスバーグの戦い7月1日 - 7月3日)の末、再び後退を強いられた。7月13日ニューヨーク徴兵暴動11月19日、ゲティスバーグの戦いにおける戦没者のための国立墓地献納式典においてリンカーン大統領が行ったのが、ゲティスバーグ演説として知られる有名な演説である。

西部戦線

詳細は「西部戦線 (南北戦争)」を参照

一進一退の状況が続いた東部戦線とは異なり、西部戦線では終始北軍が優勢に戦いを進めた。ケンタッキー州が合衆国残留を決めたため、防御に適したオハイオ川を防衛線とすることができず、そのはるか南に戦線を置かざるを得なかった。西部戦線での最初の戦闘は、1861年8月10日にミズーリ州スプリングフィールド近くで北軍と南軍側のミズーリ州兵との間で起こったウィルソンズ・クリークの戦いである。この戦いで南軍は勝利したもののミズーリ州を制圧することはできず、ミズーリ・ケンタッキー両州は動揺はあったものの北部側にとどまり続けることとなった。西部戦線での大きな転機となったのは、1862年2月に起きたドネルソン砦の戦いである。この戦いで北軍のユリシーズ・グラントは南軍の大部隊を降伏させ、北軍はナッシュヴィルをはじめとするテネシー州全域へと侵攻した。4月のシャイローの戦いで北軍は再び勝利し、ミシシッピ川の要衝であるメンフィスを占領した。一方、合衆国海軍は制海権を握っているメキシコ湾からの侵攻を試み、1862年4月29日にはニューオーリンズの戦いにおいて南部最大の都市であるニューオーリンズを陥落させた。こうした北軍の攻勢に対し、南軍はいまだ支配下にあるテネシー州東部のノックスビルから北方のケンタッキー州への侵攻を試みたが、この侵攻作戦はペリービルの戦い10月8日)とストーンズリバーの戦い12月31日 - 1863年1月2日)によって失敗した。グラントは1862年10月にはテネシー軍を率いるようになり、以後この戦線においてさらに重要な役割を果たすようになる。

北軍優勢の中で、ミシシッピ川沿いには南軍側のビックスバーグ要塞がいまだ残存しており、南部の東西を結びつける唯一の要衝となっていた。しかしグラントはヴィックスバーグの戦い5月18日 - 7月4日)で同要塞を攻略し、これによって北部はミシシッピ川の支配権を確保するとともに南軍を完全に東西に分断することに成功した。さらにグラントはテネシー州東部へと進撃し、チャタヌーガの戦い11月23日 - 25日)の勝利で南部の中心地帯への侵攻路を開いた。