ベトナム戦争 ⅡⅣ:20年戦争:主要年表
戦争の影響
ジャングルに枯葉剤を散布するアメリカ軍のヘリコプター(1969年)
戦時中でも活発な経済活動を見せていたサイゴン市内(1968年)
南ベトナム解放戦線の兵士に捕虜にされたアメリカ空軍兵士(1973年)
ベトナム
現在のホー・チ・ミン (サイゴン) 市内
1960年よりベトナム人同士の統一戦争として開始され、その後アメリカ合衆国が軍事介入し、15年間続いた戦争によって、南北ベトナム両国は500万の死者と数百万以上の負傷者を出した。このことは、掲げる政治理念や経済体制にかかわらず、労働力人口の甚大な損失であり、戦後復興や経済成長の妨げとなった。アメリカ軍の巨大な軍事力による組織的な破壊と、北ベトナム軍や南ベトナム解放戦線による南ベトナムに対する軍事活動やテロにより国土は荒廃し、破壊された各種インフラを再整備するためには長い年月が必要であった。
また、共産主義政権による武力統一、および統一後の性急な社会主義経済の施行は、フランス統治時代より活発に行われていた資本主義経済と、それがもたらす消費文化に長年慣れ親しんだ南ベトナム経済の混乱を招き、また統一後の言論統制などが都市富裕層や華人の反発を招き、その後多くのベトナム難民(ボートピープル)を生む理由となった。
一方で、南北間には対立があり、例えば取り残された南ベトナム人は乗り込んできた北ベトナム軍によって家屋敷、公共施設は接収され警察、病院、学校などは全て北ベトナム人が要職を支配した。さらに南ベトナム人の家屋敷を召し上げ北の要人がそこに住むに至って、南ベトナム人の北ベトナム人に対する悪感情は強い[要出典]。
『共産主義黒書 コミンテルン・アジア篇』[127]によれば、統一後現在までのベトナムでの死者は100万人に上るという。
再教育キャンプ
サイゴン陥落以降、北ベトナム政権への服従を拒むかその容疑がかけられた市民は、人民裁判により処刑されるか再教育キャンプ送りになった。解放戦線はサイゴン陥落直後、人民軍への編入と同時に解散を命じられ、解放戦線の幹部は北の労働党から疎んじられた。わずかに解放戦線議長を務めて統一に貢献したグエン・フー・トが戦後に実権のない名誉職である国会議長を務めた程度である。南ベトナム解放民族戦線には仏教徒や自由主義者、リベラルな学生なども多数参加していたが、ベトナム統一後、排除された。亡命せずに国にとどまった約10万人にのぼる南ベトナム軍と旧政府関係者らは、当局への出頭が命ぜられ再教育キャンプに送られた。再教育期間は階級や地位により、軽いものは数週間のキャンプ生活で済んだが、重いものは10年以上を収容所で過ごした。
1992年時点で10万人のうち9万4000人は釈放されて社会に復帰していたが、残る6000人はまだ再教育キャンプに収容されていた。米越間協議で9万4000人のうち3年以上キャンプに収容されていた4万5000人については本人の希望した場合アメリカが家族とともに受け入れる事を同意した(当時国内の窮乏と異常な失業率の高さに悩むベトナム側は、アメリカへ9万4000人全員とその家族を引き取るよう要求した)[128]。
ラオス・カンボジア
ベトナム戦争が終わると、ラオスではパテト・ラオが、カンボジアでは中華人民共和国に支援されたクメール・ルージュが相次いで政権に就いたことで、インドシナ半島はタイ王国を除いて共産化され、アメリカの恐れたドミノ理論は現実になった。ただし、アメリカ軍がインドシナ半島に軍事介入して10年間持ちこたえたからこそ東南アジア全体の共産化が阻止されたとする見方もある[129]。逆に、アメリカ軍のインドシナ介入がカンボジア内戦などの諸問題を複雑にしたという声もある。
ベトナム戦争終結から36年後の2011年現在、カンボジアでは1993年の選挙により政権は民主化された一方で、ベトナムとラオスでは依然として一党独裁制が継続している。