JR福知山線脱線事故2005/425罪日工作員Ⅱ【中】 

 

 

 

 

 

 

 

JR福知山線脱線事故

曖昧さ回避 この項目では、2005年に尼崎市で発生した事故について説明しています。

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JR福知山線(宝塚線)脱線事故
脱線した207系電車(塚口側)

脱線した207系電車(塚口側)

発生日 2005年(平成17年)4月25日
発生時刻 9時18分ごろ (JST)
日本の旗 日本
場所 兵庫県尼崎市久々知
座標 北緯34度44分29秒東経135度25分36秒座標北緯34度44分29秒 東経135度25分36秒
路線 福知山線(JR宝塚線)
運行者 JR logo (west).svg西日本旅客鉄道(JR西日本)
事故種類 列車脱線事故
原因 運転士の速度オーバーおよびATSの整備遅れ
統計
列車数 1台(7両編成)
死者 107人
負傷者 562人
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事故車両と同型の車両(207系。同形は事故後、塗装が変更された。)

JR神戸線(東海道本線)・福知山線の宝塚駅・尼崎駅付近路線図

JR福知山線脱線事故(ジェイアールふくちやませんだっせんじこ)は、2005年平成17年)4月25日西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。[1]

 

目次

1概要
1.1被害
1.2救助活動
2原因
2.1列車速度超過説 (事故報告書、通説)
2.2事故報告書における乗客の供述
2.3当初疑われた原因
2.3.1非常ブレーキ説
2.3.2せり上がり脱線説
2.3.3横転脱線説
2.3.4乗用車衝突説
2.3.5線路置石説
2.3.6油圧ダンパー(ヨーダンパー)故障説
3事故の間接的要因
3.1JR西日本の経営姿勢が抱える問題
3.2日勤教育の問題
3.3ダイヤ面での問題
3.4路線の設備での問題
3.5車両の問題
3.5.1当該列車の編成表
3.5.2メカニズム面
3.5.2.1ブレーキ関係
3.5.2.2台車
3.5.2.3客室内の設備
3.5.3車体面
3.5.4保守面
3.6事故乗務員の問題
3.6.1事故当日の運転士の行動
3.7その他の問題
3.7.1路線の周辺環境
4運休から運転再開へ
4.1振替輸送
4.1.1実施区間
4.2不通特約
4.3復旧工事
4.4試験運転
4.5運転再開
4.6その後
5補償問題
6沿線への影響
6.1伊丹駅周辺
7JR西日本人事への影響
8刑事裁判
9事故調査委員会の情報漏洩
10マスメディア
10.1番組編成(テレビ)
10.2報道のあり方
10.3番組への影響
11その他の影響
11.1社内スポーツ活動への影響
11.2日本国外の反響
12派生した事件・犯罪
13類似事故
14関連番組
15関連書籍
16脚注・出典
16.1注釈
16.2出典
17参考文献
18関連項目

19外部リンク

 

概要

2005年(平成17年)4月25日午前9時18分ごろ、兵庫県尼崎市久々知にある福知山線塚口駅 - 尼崎駅間の右カーブ区間[2](曲率半径300m。塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で宝塚JR東西線片町線(学研都市線)経由同志社前行き上り快速列車列車番号5418M、7両編成[注 1])の前5両が脱線。うち前4両は線路から完全に逸脱。先頭の2両は線路脇の分譲マンション「エフュージョン尼崎(2002年竣工)」に激突。先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入。2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに脱線逸脱してきた3 - 4両目と挟まれて圧壊。外壁にへばりつく様な状態で、1 - 2両目は原形をとどめない程に大破した[3][4]。また、3 - 4両目は反対側の下り線路を支障していた。

事故列車は、直前の停車駅である伊丹駅で所定の停車位置を超過(オーバーラン)していた。これについて、事故が起きる前に運転士が車掌に対してオーバーランの距離を短くするように打診して、車掌が新大阪総合指令所(現在の大阪総合指令所)に対して約70mのオーバーランを8mと報告し、JR西日本も当初車掌の証言通り8mのオーバーランと発表していた。 このことから、事故後に他の路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされた。さらに、JR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置き石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置き石や自転車などの障害物を置くといった犯罪も相次いだ。

事故発生と同時刻には、並行する下り線に新大阪城崎温泉行きの特急北近畿3号」が接近中だったが、事故を目撃した近隣住民が近くの踏切支障報知装置(踏切非常ボタン)を押したため、特殊信号発光機が点灯。運転士が異常を察知し、およそ100m手前で停車して防護無線を発報しており、二重事故は回避された。事故後、現場の曲率半径300mの曲線区間は制限速度70km/hから60km/hに(運輸省令における制限速度算式での300R97Cの制限74km/h台を5km/h単位に丸めて制定したものであるから、安全に係る技術的な必要性から制限を厳しくしたわけではない)[独自研究?]、手前の直線区間は120km/hから95km/hへとそれぞれ変更された。

事故列車は、4両編成と途中の片町線(学研都市線)京田辺駅で切り離す予定だった3両編成を連結した7両編成で運転していた。前から1・4・5・7両目の運転台のある車両に列車の運行状態(非常ブレーキ作動の前後5秒間)を逐一記録する「モニター制御装置」の装備があり、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目(後部3両編成の先頭車両)と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。ただし、これが直ちに脱線時の速度を示しているとは限らない。先頭車両が脱線、急減速した影響で車列が折れ、連結器部分で折り畳まれるような形になったために、側面から玉突きになって被害が拡大したものとされる。

当時、事故車両の1両目は、片輪走行で左に傾きながら、カーブ開始点付近の線路そば電柱に接触し[5]マンション脇の立体[要出典]駐車場と同スペースに駐車していた乗用車を巻き込むと共に左に横転、マンション1階の駐車場部分へと突入し奥の壁に激突。続く2両目も、片輪走行しながら、マンションに車体側面から叩きつけられる状態に加えて3両目に側面から挟まれるように追突されたことによって、建物に巻きつくような形でくの字型に大破。3両目は、進行方向と前後が逆になる。4両目は、3両目を挟むようにして下り線(福知山方面)の線路と西側側道の半分を遮る状態でそれぞれ停止した。なお、事故発生当初、事故車両の2両目部分が1両目と誤認されていた。のちに本来存在しているべき車両数(7両)と目視で確認できる車両数(6両)が一致しないことから捜索され、発見された。

駐車場周辺において電車と衝突して大破した車からガソリン漏れが確認されており、引火を避け被害者の安全を確保するためにバーナーや火花が散る電動カッターを用いることができず、救助作業は難航した。また、3両目から順に車両を解体する作業を伴い、徹夜で続けられた救助作業は事故発生から3日後の4月28日に終了した。

被害

近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者107名(当該列車の運転士含む)、負傷者562名[1]を出す歴史的な大惨事となった。犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、多くは脱線衝突の衝撃で車体が圧壊し押し潰されたことによる頭部や胸腹腔内損傷、胸腹部圧迫による窒息死(圧死)、頚椎損傷、骨盤骨折による失血死やクラッシュ症候群などであった。同じ車両から救出された生存者であってもクラッシュ症候群により四肢切断など後遺障害を伴う重傷者が複数人確認されている。

JR発足後の死者数としては1991年(平成3年)の信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名)を上回り史上最悪となる死傷者を出し、鉄道事故全般で見ても戦後国鉄時代含む)では桜木町事故(106名)を上回り、八高線の列車脱線転覆事故(184名)・鶴見事故(161名)・三河島事故(160名)に次いで4番目、戦前戦中に遡っても7番目となる甚大な被害を出した。

また、犠牲者の遺族・友人、負傷しなかった乗客・マンション住人、救助作業に参加した周辺住民・救急隊員など広範囲でPTSDを発症するなど大きな影響を及ぼした。

なお、マンションには47世帯が居住していたが、倒壊の恐れに備えてJR西日本が用意したホテルなどへ避難した。事故後も2世帯が残っていたが、8月上旬までに順次マンションを離れたため空家状態となった。

また、物件損害は詳らかではないが、駐車場にあって巻き込まれた多数の自動車がスクラップ同然の状態となった[6]