治安維持法【戦前悪魔法】Ⅰ【前半】
廃止
1945年(昭和20年)の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死している。10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者のインタビューに答えて、「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」方針を明らかにした。
1945年8月下旬から9月上旬において、司法省では岸本義広検事正を中心に、今後の検察のあり方について話し合いを行い、天皇制が残る以上は治安維持法第一条を残すべきとの意見が出ていた[7]。ほか、岩田宙造司法大臣が政治犯の釈放を否定している。
1945年10月4日、GHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も廃止を命じられた。
その歴史的役割
当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。
そもそも当時の日本では、結社の自由には法律による制限があり、日本共産党は存在自体が非合法であった。また、普通選挙法とほぼセットの形で成立したのは、たとえ合法政党であっても無産政党の議会進出は脅威だと政府は見ていたからである。
後年、治安維持法が強化される過程で多くの活動家、運動家が弾圧・粛清され、小林多喜二などは取調べ中の拷問によって死亡した。ちなみに朝鮮共産党弾圧が適用第一号とされている(内地においては、京都学連事件が最初の適用例である)。
1930年代前半に、左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年(昭和10年)の大本教への適用(大本事件)など新宗教(政府の用語では「類似宗教」。似非宗教という意味)や極右組織、果ては民主主義者や自由主義者の取締りにも用いられ、必ずしも「国体変革」とは結びつかない反政府的言論への弾圧・粛清の根拠としても機能した。もっとも、奥平は右翼への適用は大本教の右翼活動を別にすれば無かったとしている[8]。
奥平康弘は1928年(昭和3年)改正で追加された「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定が政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動において「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の名目で同法を適用する根拠になったと指摘している[9]。不都合な相手ならば、ただ生きて呼吸していることでさえ「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」と見なされ逮捕された。こうした弾圧は公安警察という組織の維持のために新しい取り締まり対象を用意することに迫られた結果という一面もあったといわれる。
また、治安維持法の被疑者への弁護にも弾圧・粛清の手が及んだ。三・一五事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された(当時は弁護士会ではなく、大審院の懲戒裁判所が剥奪の権限を持っていた)。さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された(日本労農弁護士団事件)。その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。
治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが起訴された。日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。
日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件で起訴されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。ゾルゲ事件では他にも多くの者が逮捕されたにもかかわらず死刑判決を受けたのはゾルゲと尾崎だけだった。戦後ゾルゲ事件を調査したチャールズ・ウィロビーはそれまで持っていた日本に対する認識からするとゾルゲ事件の多くの被告人に対する量刑があまりにも軽かったことに驚いている[10]。
とはいえ、小林多喜二や横浜事件被疑者4名の獄死に見られるように、量刑としては軽くても、拷問や虐待で命を落とした者が多数存在する。日本共産党発行の文化評論1976年臨時増刊号では、194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したと記述されている。
さらに、外地ではこの限りではなく、朝鮮では45人が死刑執行されている[11]。それ以外の刑罰も、外地での方が重い傾向にあったとされる[12]。
その後
治安維持法を運用した特別高等警察を始めとして、警察関係者は多くが公職追放されたが、司法省関係者の追放は25名に留まった。池田克や正木亮など、思想検事として治安維持法を駆使した人物も、ほどなく司法界に復帰した。池田は追放解除後、最高裁判事にまでなっている。
1952年(昭和27年)公布の破壊活動防止法は「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。その後も、治安立法への批判に対して治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)、共謀罪法案など)。
第二次世界大戦後は治安維持法については否定的な意見が主流といわれる。しかし、保守派の一部では、治安維持法擁護論もあり、また現在における必要性を主張する論者もいる。
1976年(昭和51年)1月27日、民社党の春日一幸が衆議院本会議で宮本顕治のリンチ殺人疑惑を取り上げた際、宮本の罪状の一つとして治安維持法違反をそのまま取り上げた。そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。
藤岡信勝は『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」と全面的に評価し、ソ連の手先と名指しされた日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」。『正論』2006年9月号など)。
いずれも、反共主義の立場から「絶対悪としての共産主義」を滅ぼすためには当然の法律であったという肯定論である。
その他
1948年(昭和23年)に制定された韓国の国家保安法は治安維持法をモデルにしたと言われている[13]。
脚注
注釈
出典^ 勅令により当時は日本の植民地であった朝鮮、台湾、樺太にも施行され[1][2]、独立運動も含めて内地同様の取り締まりを行った。
- ^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行ス (勅令案)
^ 治安維持法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件・御署名原本 (大正十四年・勅令第一七五号)
^ 奥平康弘『治安維持法小史』 岩波書店〈岩波現代文庫〉、2006年6月。ISBN 9784006001612 pp.55-56
^ これには、当時から憲法違反との指摘が根強かった。『安保法制の何が問題か』参照
^ 荻野富士夫 「解説:治安維持法成立「改正」史 Ⅲ 治安維持法の改悪―第二次治安維持法」『治安維持法関係資料集 第4巻』 新日本出版社、1996年3月25日、584-596頁。hdl:10252/4433。
^ 荻野富士夫 『思想検事』 岩波書店〈岩波新書〉、2000年9月。ISBN 9784004306894
^ 向江璋悦 『鬼検事』 法学書院 p.89~90
^ 前掲、奥平 pp.229-230
^ 前掲、奥平 pp.115-120
^ 『赤色スパイ団の全貌 : ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年
^ 水野直樹 「日本の朝鮮支配と治安維持法」
^ しんぶん赤旗 2006年9月20日号 「治安維持法で多くの朝鮮の人が死刑 本当ですか?」
^ 閔炳老「論説 韓国の国家保安法の過去、現在、そして未来-憲法裁判所の判決に対する批判的考察- (PDF) 」 、『比較法学』第33巻第1号、早稲田大学比較法研究所、1999年7月1日、 105-163頁、2015年3月22日閲覧。
外部リンク
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ウィキソースに治安維持法 (大正十四年法律第四十六号)の原文があります。 |
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