漢字の「神」
「神」の字の旧字体。一説の漢字の成り立ちは、会意兼形声であり「示(祭壇)+音符申」で、いなずまのように、不可知な自然の力のこと。のち、不思議な力や、目に見えぬ心の働きをもいう[3]。のちに「ずばぬけてすぐれたさま」や「かみ」といった意味が加わった。
初出
春秋左氏伝‐荘公三十二年の記載が、漢字の「神」の初出とされる。 「神」は、天文をコントロールし、耕地を与える技術を持っていた聡明で正直な呪術師であったことが記されている[4]。すなわち、ここでの神は、農業指導者として農事暦に天文や気象の周期と作物の関係を記録して種まきの時期を選び、また食物を計画的に収穫・備蓄して人を動員し、興亡を左右した人間のことを説明している。
神の性質についての様々な考え方
世界的に見ると、神を信じている人は多く(アブラハムの宗教だけでも30億人を超える[5])、神に基づいて自身の生活様式を整えている人、"神とともに生きている"と形容できるような人は多い。
神がどのような存在であるかについての様々な考え方は、宗教や哲学などに見ることができる。以下にその主なものを挙げる。これらの考え方がそれぞれに両立可能なのか不可能なのかは個人の解釈にもより、一概には言えない。
- 創造主(ギリシア語ではデミウルゴス)、第一原因としての神。全ての物事の原因を辿って行ったときに、全ての原因となる最初の創造(創世)行為を行った者として、想定される神。
- アニミズム(汎霊説)における神。洞窟や岩石、山、水(泉、滝)など自然界の様々な物事(あるいは全ての物事)に固有の神。それらの物事に「宿っている」とされる。
- 守護神、恩恵を与える者としての神。神は信仰、犠牲、祈りなどに応じて現世や来世における恩恵を与えてくれる存在であるとする考え方。
- 人格神。神が人と同じような人格(や姿)を持つとする考え方。
- 現実世界そのものとしての神。この世界のありようがそのまま神のありようであるとする。例えばスピノザはこのような考え方を採った[要出典]ことで知られている。汎神論。
神の性質に関して、その唯一性を強調する場合 一神教、多元性を強調する場合 多神教、遍在性を強調する場合 汎神論が生まれるとされる。ただし汎神論はしばしば一神教、多神教の双方に内包される[要出典]。また、古代から現在まで神話的世界観の中で、神は超越的であると同時に人間のような意思を持つものとして捉えられてきた。近代科学の発展と無神論者からの批判を受け、このような神理解を改めるべきという意見[要出典]も現れている。
人知を超えた存在であると考えられることや、人間や動物のように社会や自然の内に一個体として存在していることは観察できないことから、神の存在を疑う者も多い。神の不在を信じる者は無神論者と呼ばれ、マルクス主義は無神論の立場に立つ。また、実存主義者の一部も無神論を主張する。
また神が存在するかどうかは知りえないことであると考える者は不可知論者と呼ばれる。
一神教の神
「一神教」も参照
いずれも、旧約聖書を経典とし、同一の神を信じている。ユダヤ教においてはモーセの時代にそれ以前の宗教から新しい体系が作り上げられたとされる。ユダヤ教を元に、イエス・キリストの教えからキリスト教が誕生し、さらにムハンマドによってイスラム教が生じた。
これら3つの宗教は唯一神教ではあるが、神以外にも人間を超えた複数の知的存在があることを認めている。天使が代表例であり、人間以上だが神以下の存在である(ただしイスラム教では、後に創造されたものであるほど優れているという考えがあるため、天使は人間に仕える存在という側面もある)。天使はあるときは普通の人の形をして現われたり、人とは違う形をして現われたりする。しかし「神の働き」は神だけが行うことができ、その他の存在は「神にお願いすること、執り成しができる」だけである。聖母マリアも、厳密には崇拝対象ではなく「敬愛」の対象であり、少なくとも教義上では区別している。聖母マリアはお願いをイエス・キリストに伝えてくれる存在ではあるが、神と同等の存在ではない。
またキリスト教では、聖人が特定の地域、職種などを守護したり、特定のご利益をもたらすとするという信仰がある。ただし、キリスト教のなかでもカトリックなどは聖人崇敬を行っているが、プロテスタント諸教派のなかには聖人崇敬を行わない教派もある。また、聖人崇敬を行う教派であっても、崇拝する対象はあくまでも神であり、神ではない聖人は崇敬の対象であり崇拝の対象ではない。イスラム世界ではジンという人間と天使の間に位置する精霊が想定されている(『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)に登場する魔法のランプのジンが有名)。
実際、一神教内部においても例えばインドのように多神教を信仰している人々と共存している地域だと、一神教の人々も場合に応じて多神教の聖地を崇拝したり神格のようなものを認知することがしばしば行なわれる。無論一神教と多神教が両立不可能かというのは個々人の解釈にもよる問題であり、成文化された教義と現実的な宗教行為に齟齬が生まれることも多く、宗教と社会の関係は動態的に捉えなければ単純な図式化に陥る可能性が有る。
ユダヤ教の神
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「アドナイ(ヤハウェ)」も参照
「トーラー」の第1巻「ベレシート(キリスト教翻訳では創世記)」第1章では、天地創造の6日目までに登場する神の名は男性名詞複数形のエロヒーム(אלהים)のみである。また、第2章に記された天地創造の7日目もエロヒームのみである。[6]
しかし、第2章における天地創造の詳述では、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」と、エロヒームが併記され、かれらは、草木とイーシュ(男)であるアダム(人)を創造して良し悪しの知識の木から取って食べてはならないと命じ、その後にアダム(人)からイシャー(女)を創造したことが記されている。[7]
また、第三章では、イシャー(女)が蛇に促されて禁断の実を食べアダム(人)にも与えたので彼も食べたために、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、蛇がイシャー(女)の子孫のかかとを砕きイシャー(女)の子孫から頭を砕かれるように呪い、イシャー(女)には、苦悩と分娩を増やしに増やし苦痛の中で男児たちを産みイーシュ(男)に支配されると言い渡し、アダム(人)にも、顔に汗して食べ物を得ようと苦しむと言い渡し、土を呪ったことが記されている。そして、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」とエロヒームは、彼らの一人のようになったアダム(人)が命の木からも取って食べ永遠に生きないよう、アダム(人)をエデンの園から追い出し、また、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東に回されている燃える剣とケルビムを置いたことが記されている。[8]
「申命記・詩篇・箴言・知恵の書」などにおいて神を信じる人々のあるべき生き方が示され、サムエル記・列王記・マカバイ記・エステル記などにおいて神を信じた人々の生き方が示される。
なお、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」をそのまま声に出して読まない訳は、「神の名」を唱えてはいけないと伝えられている。
ただし、アドナイ(主)と読み替えて音読される「יהוה」は、次の通り、イスラエルの祭司族であり書紀族でもあるレビ族の嗣業を指す[9]。
- 口語訳聖書申命記10章9節‐そのためレビは兄弟たちと一緒には分け前がなく、嗣業もない。あなたの神、主が彼に言われたとおり、主みずからが彼の嗣業であった。
- 新共同訳聖書申命記10章9節‐それゆえレビ人には、兄弟たちと同じ嗣業の割り当てがない。あなたの神、主が言われたとおり、主御自身がその嗣業である。
- 欽定訳聖書申命記10章9節‐Wherefore Levi hath no part nor inheritance with his brethren; the LORD is his inheritance, according as the LORD thy God promised him.
日本の高等学校公民科の教科書や一般の出版物では、ユダヤ教の神を、ヘブライ文字で「ヨッド・ヘー(無声声門摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・へー(無声声門摩擦音)」という子音で綴られた「יהוה」(エ・ハヴァー)のみとし、その発音をYah·weh[10]のカタカナ読みとして「ヤハウェ」と明記している。しかし、ヘブライ語としての実際の発音は、子音で「ヘット(無声軟口蓋摩擦音)・ヴァヴ(軟口蓋接近音)・ヘー(無声声門摩擦音)」と綴るアダムの妻の名「חוה」(ハヴァー)に非常に近い[11]。カタカナでその発音を表記するのは非常に難しく、「ה」と「ו」と「ח」は、日本語で表記すると「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。なお、このアダムの妻の名は、キリスト教口語訳聖書や新共同訳聖書でエバと表記されているが、日本ではイヴと表記されることも多い。
キリスト教の神
三位一体
アンドレイ・ルブリョフによるイコン『至聖三者』。旧約においてアブラハムを3人の天使が訪れたことを三位一体の神の象徴的顕現として捉える伝統が正教会にはあるが、そのもてなしの食卓の情景を描いたイコンを元に3人の天使のみが描かれたもの。
キリスト教のうち殆ど(正教会[12]・東方諸教会[13]・カトリック教会[14]・聖公会[15]・プロテスタント[16][17][18][19]など)が、「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
伝統的なキリスト教の多数派では、ナザレのイエスはキリストであり、三位一体(至聖三者)の第二位格たる子なる神であり、完全な神でありかつ完全な人であると理解されている[20][21][22][23][24][25][26]。
三位一体論の定式の確認の多くは、古代の公会議(正教会で全地公会議と呼ばれる一連の公会議)においてなされた。
キリスト教における訳語としての「神」[編集]
「デウス#日本のカトリックにおけるデウス」も参照
カトリック教会においてはかつては「天主」の訳語が用いられていた。プロテスタントには「真神」という用語もあった[27]。隠れキリシタンによるゴッドの訳には、「ゴクラク」「オタイセツ」などがあったという[28]。
漢字である「神」が、ヘブライ語: "אלהים"、古代ギリシア語: "Θεός"、英語: "God"の訳語に当てられたのは、近代日本でのキリスト教宣教に先行していた清におけるキリスト教宣教の先駆者である、ロバート・モリソン(Robert Morrison)による漢文聖書においてであった。しかしながら訳語としての「神」の妥当性については、ロバート・モリソン死後の1840年代から1850年代にかけて、清における宣教団の間でも議論が割れていた。この論争は中国宣教史上、"Term question"(用語論争)と呼ばれる。この論争の発生には、アヘン戦争後、清国でのキリスト教宣教の機会が格段に増大し、多くの清国人のためにより良い漢文訳聖書が求められていた時代背景が存在していた[29]。
用語論争において最大の問題であったのは、大きく分けて「上帝」を推す派と「神」を推す派とが存在したことである。前者はウォルター・メドハーストなど多数派イギリス人宣教師が支持し、後者をE.C.ブリッジマンをはじめとするアメリカ人宣教師たちが支持した[29]。
こんにちでも、その妥当性については様々な評価があるが、いずれにせよ、和訳聖書の最も重要な底本と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる漢文訳聖書は、「神」を採用していた。殆どの日本語訳聖書はこの流れを汲み[30]、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせずに[注釈 1]、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。
イスラームの神
「アッラーフ(الله Allâh)」も参照
旧約聖書の創世記において、アブラハムの子であり異母兄弟であるイサクとイシュマエルがおり、このうちイサクがユダヤ一族の祖である旨の記述がある。イスラームの聖典であるアル=クルアーン(コーラン)にはイシュマエルがアラブ人の祖であるとの記述がある。なお、イシュマエルとはヘブライ語での読み方であり、アラビア語ではイスマーイールとなる。 また、インジール(福音書)に描写されたイーサー(イエス)は神性を有する存在ではなく、ムハンマドやモーセなどのように神の預言者の一人であるとみなされている。
ちなみに、イスラーム信徒に広く使われているアラビア語の中の、神を意味する単語で「アッラーフ」または「アラー」「アッラー」(アラビア語: الله ラテン文字化: Allâh)がある。これは、普通名詞である場合と、固有名詞である場合がある。
福音書における神
キリスト教、ネストリウス派、イスラム教が教典とするヨハネによる福音書において、「言は神」である。
- 口語訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
- 新共同訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
- 欽定訳聖書ヨハネによる福音書1章1節‐In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
また、このことをトーラーに引くと、主は祭司族として書記を務めたレビ族の嗣業[32]であるゆえに、「主イエス・キリストは神であり、言であり、レビ族の嗣業」であることを意味する。