2016.09.16

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「京都皇統」なる独自のソースから得た衝撃的な歴史情報を「落合秘史シリーズ」として公開し続け、一部から熱狂的な支持を受ける落合莞爾氏のインタビューを敢行した。落合氏がメディアのインタビューに答えるのは初めてである。

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京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘』(成甲書房)

明治維新の裏歴史


●吉薗周蔵の手記を解読したら、世界的規模の巨大組織の存在が浮かび上がってきた

――ご著書を読むと、「堀川政略」「大塔政略」「満鮮経略」等の言葉が登場してなかなか全容を把握するのが難しいのですが、単純に言ってしまうと、明治維新とは誰がシナリオを書き、何を目的として行われたのでしょうか?

落合莞爾氏(以下、落合) まず、私が歴史調査を始めたきっかけからお話ししましょう。始まりは平成7年(1995)9月に来訪された吉薗明子(よしぞの・あきこ)さんから、家蔵の佐伯祐三絵画の真贋調査を頼まれたことでした。明子さんの父・吉薗周蔵(よしぞの・しゅうぞう)の日記を見ると、周蔵は大正から昭和初年にかけて陸軍に最高首脳として君臨した元帥・上原勇作の個人付き特務(秘密諜報員)で、上原元帥の命を受けて陸軍に関わる極秘の国事工作に携わっていたことがわかりました。

 およそ秘密諜報員たる者が手記を残すのは、いざという場合に自分を守るためで、自分が置かれていた立場と自分の行為の正当性を証明するのが最大の目的です。吉薗周蔵もその例に洩れず、陸軍大臣・上原勇作の特務を引き受けた18歳の大正元年八月末日から日誌をつけていました。

 その「吉薗周蔵手記」は、紛れもなく日本近代史の第一次資料です。私は、周蔵自身が記した生々しい記述を通じて日本近代史の裏側を知ることとなりました。
「周蔵手記」の解読を進めた私は、8年ほどで解読をあらかた終えました。あらかた終えた段階になって、大きな謎が浮かびました。吉薗周蔵が上原元帥の命令で陸軍に関わる国事に携わっていたことは明白ですが、問題は周蔵の上官(運用者)の上原元帥です。

 そればかりではありません。甘粕大尉・久原房之助や大谷光瑞師らの活動は、どう見ても純然たる個人のものでなく、特定の国際的組織に属しているようにしか見えないのです。日本社会で各界の頂上にいるこの人たちは、全員が世界的規模の巨大組織に属していることを否定すべくもありません。その国際的組織がいったい何なのか。それが私に浮かんだ謎でした。

 私にとっても謎だったその国際勢力の外郭がようやくつかめたときには、平成も20年代の入り口を過ぎていました。その段階で執筆したのが『金融ワンワールド』(成甲書房)です。平成24年(2012)4月に公刊したこの著では、例の国際秘密勢力を「ワンワールド」と名付けたうえで「金融・宗教・軍事の国際的な融合体」であると説きました。

 その段階ではまだ「ワンワールドの淵源」を知らなかった私は、19世紀初頭のウイーン会議で成立した欧州王室連合が、鎖国下の日本をワンワールドに参加させる目的で開国を迫ったとの推測を述べました。

 これを皮切りに私は、知り得た日本近代史の歴史情報を洞察した結果を、「落合秘史シリーズ」として発表することとなりました。その第1巻は2012年暮れに公刊した『明治維新の根本計画』です。この著は、欧州王室連合の開国要求に対応するために朝廷が建てた「堀川政略」を中心テーマとしたものです。

 私が「堀川政略」と呼ぶその計画の骨子は、「崩御を装った孝明天皇と皇太子・睦仁親王が、京都堀川通り六条の本圀寺内に秘密造営された堀川御所に隠れ、長州藩奇兵隊士・大室寅之祐が睦仁親王と交替して明治天皇となった」ということです。これに付随する戦略系がいくつかあり、将軍・家茂は大坂城での薨去を装って関西の寺院に隠れたこと、幕府の陸軍奉行・小栗忠順が東山道鎮撫総督の随行・原保三郎に斬殺されたと装い、利根川の舟運を利用して江戸湾に下り、沖に停泊していた米国船で米国に亡命したことなど、です。

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明治維新の極秘計画

――「大室寅之祐が睦仁親王と交替して明治天皇となった」件はご著書『明治維新の極秘計画』などに書かれているので、読者にはそちらをご覧いただくとして、孝明天皇の崩御と将軍・家茂の薨去が虚偽だったという件だけ聞かせてください。孝明天皇は慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御したとされていますし、徳川家茂は慶応2年7月20日(1866年8月29日)に亡くなったとされています。それぞれ事実は違うということですか?

落合 孝明天皇は崩御を装い、京都堀川の本圀寺境内に設けられていた堀川御所に隠棲して國體天皇となり、大室寅之祐が就いた政体天皇に代わって明治時代の皇室外交と国際金融を担当されました。家茂の偽装薨去は「堀川政略」の一環であり、一橋慶喜は家茂の薨去を口実として、孝明天皇から休戦を命ずる詔勅を取りつけます。

 

 

●南北朝は秘密裏に統合されていた?

――その國體(国体)天皇というのはご著書にも登場しますが、裏の天皇のような存在ということでしょうか?

落合 まず、日本の政治は古来、國體と政体に分かれていますから、それぞれにトップというか中心になる方がおられるのです。天皇とは政体の中心ですが、國體にも中心があり、正式名称ではないが「國體天皇」とでも呼ぶしかありません。

 ことに、孝明天皇の跡を継ぐ新天皇のために明治四年(1871)十一月十七日に東京皇居で執行された大嘗祭は、大室寅之祐だけでなく睦仁親王のためにも行われたのです。大嘗祭を経たら天皇になりますから、二人の天皇が誕生し、新天皇・大室寅之祐が政体を担当し、睦仁新天皇は裏に回られて國體を担当されたということです。

 南北朝時代には二人の天皇がいたとされますが、実は後南朝も新北朝も南北両統を一本化するための過渡期であって正式天皇でなく、正式天皇は伏見宮貞成親王の王子・後花園天皇から始まるのです。

 私がこれを知った経緯は次の通りです。

 2012年にたまたま徳田武博士の『朝彦親王伝』を読んで思い出したのが、その1年ほど前に「京都皇統代」(当時。なお、京都皇統代とは落合氏の情報源)から示唆された「久邇宮(朝彦親王)は南朝の血筋」という言葉の意味が分からず、謎のままにしていたことです。これを機に、思い切って京都皇統(現時)にご教示を願ったところ、初めて示唆されたのが「大塔政略」です。

 2014年の暮れに公刊した『欧州王家となった南朝皇統』の端緒は、『南北朝こそ日本の機密』の公刊から1年半ほど経ったころ、京都皇統から大塔宮の子孫が欧州に渡ったことを示唆されたことです。つまり「大塔政略」の根底には、『南北朝こそ日本の機密』を執筆した段階の私が想像もしなかった壮大な構想が潜んでいたのです。

 これによって南北皇統を秘密裏に統合したことを知った私は、2013年春に秘史シリーズの特別編として、『南北朝こそ日本の機密』を発表しました。この著は日本社会が古来、國體と政体の並立により成り立ってきたことを明らかにし、大塔宮護良親王直系の永世親王伏見殿が、國體勢力を掌握するウラ天皇(國體天皇)として、国事を謀ってきたことを述べたものです。


――えっ、明治四年の大嘗祭は明治天皇(睦仁親王)だけでなく、大室寅之祐のためにも行われたのですか。我々が知ることのできる証拠のようなものはありますか?

落合 政体天皇・大室寅之祐と國體天皇・睦仁親王の大嘗祭は同じ日に同じ吹上御所で行われたと京都皇統から聞いています。國體天皇の大嘗祭は密やかに行われ、國體関係者以外は参加していないそうです。國體天皇の大嘗祭の痕跡は記録上にも残っていないでしょうね。


――「南北皇統を秘密裏に統合」「國體と政体の並立」についても、もう少し具体的にご説明いただけますか。合わせて「大塔政略」とは何かも教えてください。

落合 「南北皇統を秘密裏に統合」とは、建武元年(1334)に南北両皇統の首脳が驚くべき内容の合意を極秘裡に交わしていたことを指します。「大塔政略」の基本は嘉暦三年(1328)にできていました。中心人物は在位十年を迎える後醍醐天皇と、その参謀総長の醍醐寺文観、21歳になった護良親王および楠木正成らがいわゆる南朝側で、いわゆる北朝側も足利尊氏と弟の直義が参謀の醍醐寺賢俊を通じて秘かに加わっています。文観と賢俊は同じ醍醐寺の高僧として秘密協議をしていたのです。

 元弘三年(1333)六月に新政を開始した後醍醐天皇は当初から新政の無理を知っていたため、浸透する貨幣経済によって勃興する商品流通の時代の実現を図ったのです。大政を武家政権に委任するのは予定のコースでした。

 後醍醐天皇は鎌倉末期以来、南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)に分かれて収拾がつかなくなっていた皇統を一本化することで、持明院統の合意を得ていました。その骨子は、将来にわたり皇統を後醍醐の皇子・大塔宮護良親王の子孫に一本化することにありました。

 ところが南北両統の合意はこれだけではなかったんですね。大政を足利尊氏に委任する方針だった後醍醐天皇は、その手段として護良親王と楠木正成を足利尊氏の政敵に仕立てあげた。そのために、建武元年(1334)一月には寵姫・阿野廉子の産んだ恒良親王を皇太子にしたうえ、廉子の嫉視を買った形で護良親王に偽装謀反の罪を着せて鎌倉に送り、足利直義の保護下に置きます。

 一方、南北朝統合の第一歩として、建武元年四月二十二日に生まれた大塔宮の王子・益仁親王を北朝光厳上皇の第一皇子として入籍し、この王子を将来「北朝の天皇」として皇位に就けることにより、南北朝の秘密統合を謀ったわけです。これらの秘密計画は大塔宮護良親王を中心に据えたものであるから、総称して「大塔政略」と呼ぶことにしています。

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画像は、『欧州王家となった南朝皇統 (落合秘史)

 また2014年の暮れに公刊した『欧州王家となった南朝皇統』は、大塔宮護良親王が鎌倉を脱出して西大寺入りした後の「大塔政略」の展開をテーマとし、大塔宮の王子・王孫がオランダ王家オランイェ・ナッソウ家およびベルギー王家ザクセン・コーブルグ・ゴータ家となり、さらにイギリスの王家ウィンザー家となった経緯を述べています。

 つまり「大塔政略」の最終目的は「南北朝の秘密合一」にとどまらず、「西大寺入りした大塔宮の子孫が欧州に進出して欧州社会を革新すること」にあったのです。

「國體と政体の並立」については、日本には太古から政体と國體があり、平安朝の中期以後に成立した院政により、上皇が國體事項を分担していたのですが、南北朝に至ってこの形が変わりました。明治憲法も現行憲法も政体を定めただけで國體天皇に及ばないため、國體天皇について国民はおろか政体の首脳もごく少数しか知らぬのが現状です。
(聞き手・構成 高橋聖貴)

【第2回(明日配信)に続く http://tocana.jp/2016/09/post_10915.html

落合莞爾(おちあい・かんじ)
1941 年、和歌山市生まれ。東京大学法学部卒業後、住友軽金属を経て経済企画庁調査局へ出向、住宅経済と社会資本の分析に従事し、1968~69年の『経済白書』の作成に携わる。その後、中途入社第1号として野村証券に入社、商法および証券取引法に精通し、日本初のM&Aを実現する。1978年に落合莞爾事務所を設立後は経営・投資コンサルタント、証券・金融評論家として活躍。日本および世界の金融経済の裏のウラを熟知する人物として斯界では著名な存在である。著書に『先物経済がわかれば本当の経済が見える』(かんき出版)、『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の事実』(時事通信社)、『金融ワンワールド』、「落合秘史シリーズ」として『明治維新の極秘計画』『南北朝こそ日本の機密』『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』『京都ウラ天皇と薩長維新政府の暗闘』『欧州王家となった南朝皇統』『ワンワールドと明治日本』(いずれも成甲書房)などがある。
・公式ホームページ http://www.kishu-bunka.org/

 

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