人生はイリュージョン、「人間はコンピューターを具体的に動かすただのアプリケーションプログラムにすぎない」。新たなる人生論が提唱される(英研究)
2014年10月20日 ι コメント(93) ι 知る ι サブカル・アート ι #
人生とは何か??自分の人生にはどんな意味があるのだろうか?などと考えみたことはあるだろうか?考えれば考えるほどわからなくなってしまう、それもまた人生なのだが、でもあまり心配することはないそうだ。
英オックスフォード大学の哲学者、ニック・ボストロムたちの提唱する人生はこうだ。「人には自分の人生などない。人はコンピューターを具体的に動かすただのアプリケーションプログラムなのだから」。そしてこの人生論が広がりを見せているという。
その人生論はこうだ。これまでの体験からわかるように、コンピューターの力が強大になるほど、全実生活をそっくりそのままコンピューター上でシミュレートすることが可能になるという。
科学者たちはパンデミックから惑星形成まですべての事象のモデルを設計してきた。いずれ、ゲームクリエーターのウィル・ライトが作った「シムアース」のような複雑な社会モデル、またはそれに類似したものが生まれてくるのは必至だ。
シムアースは惑星を育てるゲーム。プレーヤーは神となり惑星上の様々な課題を攻略していく。
そうしたシミュレーションの中のキャラクターはあまり聡明ではなく、自分の頭で考えるということをしない。彼らはあなたがたたくキーボードやアルゴリズムに従ったジョイスティックの動きに反応しているだけだ。
しかし、数百年だって、進んだ人工知能をもった分身たちによってシミュレーションが構成されるようになったら、どうなるか考えてみて欲しい。登場人物たちは自分の関心(利害関係)で行動し、組み込まれたプログラマーの意志を超えてしまうようになる可能性がある。ある複雑なレベルになると、自己というものを意識するようになるかもしれない。
こうして考えてみると、これは必然の結果のように思えてくる。未来の歴史家(あるいは好奇心旺盛な若者)が、プラグラミングのスキルを駆使して、巨大コンピューターにアクセスしたら、ステロイド剤を使ってシムアースを構築できるかもしれない。例えば、15世紀のヨーロッパ社会のシミューレションを駆け抜け、ペスト時代の状況がどんな様子だったかを見ることができる、いわば先祖シミュレーションだ。
『マトリックス』のキアヌ・リーブスと違って、シミュレーション上の人々は、自分たちの人生が機械の中で実行されている単なるコードだということは知らない。ここまでくると、プログラマーは単にひとつのシミュレーションを実行させているわけではないことがはっきりわかるだろう。グランド・セフト・オートをやっている人は、一回だけではなく、何万回とプレイするはずだ。
映画マトリックスより
つまり、先祖シミュレーションが可能ならば、それが実社会をかなりしのぐことになる。結果的に、シミュレーション上にすべての人間が存在することはかなりありえる話だ。我々が行っている、あるいは行ってきたすべてのことは、高度な知能をもつ異星人によってプログラム化された幻影にすぎないという可能性もある。
自分がコンピューターを起動させるただのソフトにすぎないという考え方にがっかりするかもしれないが、この世がシミュレーションででないなら、ボストロムは次のうちのいずれかが真実に違いないといっている。
1)シミュレーテッドリアリティを生み出す現実社会の技術的レベルは進んでいない。
2)技術的レベルを達成した文明があっても、興味がないといった理由で実行しない。
ボストロムの仮説は、不安を煽り、いくつかの疑問が浮かび上がってくる。まず、人生がリアルなのかフェイクなのか、知る方法はあるのか?
ワシントン大学の物理学者サイラス・ビーンは、宇宙線の綿密な研究が、私たちの知覚体験の根底に計算グリッドが存在するかどうかを教えてくれるかもしれないと考えている。こうした計算グリッドはすべての仮想コンピューターモデルに使われ、さまざまな現象を個別の塊に分類する役目を担う。
この格子が細く、マトリックス(母体)が十分な信頼性をもっていると、微細な宇宙線を含む我々の物理的な実験ではそれを感じることができない。わたしたちの人生がリアルかフェイクかを知る実験手段はないのかもしれない。
次の疑問は、私たちが生きている世界がシミュレーションならば、これを作った地球上もしくは地球外の者とは誰なのかという疑問だ。
ボストロムは、シミュレーションが行きつく先に限界があるということに気づいた。それはコストの限界だ。結局、グランド・セフト・オートを動かせるのはそのゲームの中でだけだ。どこまでも無限にできない理由は計算コストに尽きる。現実社会の根本原理というものがどこかにあるものだ。
ゲーム、グランドセフトオート5より
何年か前にボストロムとこのアイデアについて話したとき、もしわたしたちが単なるシミュレーションの中に生きているのなら、倫理的なふるまいをする義務があるだろうかと訊いてみた。自分が単なるコードならば、社会的にいい子であることの意味はなんなのだろうと。ボストロムはしばしためらってから、とはいえ倫理的な行動を選択するべきだと静かに答えた。
確かにそうだが、そう答えるよう彼はプログラムされているのかもしれない。よくよく考えると、自分が実験用ラットよりも低俗だというのはやはり嫌だと思った。少なくとも実験用ラットは現実だ。いや、ちょっと待て。もしかしたらあれも現実ではないのかもしれない・・・
原文翻訳:konohazuku
何がリアルで何がフェイクか?ネット上でよく議論されているが、もしかしたら我々の存在自体もフェイクだったりするわけで、だとするともう、なんか生きているというよりは生かされてる感じ?じゃあもう開き直って好きなことして生きようじゃないの。ってえ?それもトラップ?