ガイウス・ユリウス・カエサルⅡ【中半】
独裁官として
- 多数の軍事的成功によるローマ国境内の安定化(後のパクス・ロマーナに繋がる)。民生の充実、および共和政から帝政への移行のため、政治・経済・社会等、諸制度の全面的な改革を行う。
- ガリア・キサルピナ属州(現在の北イタリア地方)の都市計画並びに属州民へのローマ市民権付与。シチリアとガリア・トランサルピナ属州(現在の南フランス地方)住民へのラテン市民権の授与。
- 元老院議員をスッラ体制下の600人から900人に増員。中西部ガリアの部族長、属州のローマ市民、カエサルのケントゥリオ(百人隊長)などが新たに議席を得る。これによって元老院の権威は著しく低下し、カエサルの権威に対抗する存在はなくなった。新たな属州出身者の元老院入りは人材の多様性をもたらし属州のローマ化に大きな影響を与えた一方で、元来の議員の敵意を招いた。後継者アウグストゥスの時代には、内乱の混乱で1000人以上となっていたのを600人に戻し、属州出身議員の登用は後のクラウディウスの時代まで凍結された。
- 権力を独占し従来の政治の基本構造であった民会、護民官を有名無実化した。
- 金銀の換算率の固定化、国立造幣所の開設、利息率の上限を設定。
- 法務官(プラエトル)、財務官(クァエストル)、按察官(アエディリス)の増員。
- 同僚執政官(コンスル)の補佐役化。
- 地方議会の被選挙権の改正、解放奴隷への公職門戸開放。
- 属州の再編成(スッラ:10州→カエサル:18州)。属州議会の認知、税制の公正化(公営の徴税機関設置)。
- ユピテル、ユーノー、ミネルウァをローマの主神とし、この神々を祭る日を休日とした。
- センプロニウス法再興による元老院最終勧告の廃止。陪審員資格をパトリキ(貴族)・エクィテス(ローマ騎士)・プレブス(平民)といった「階級別」から、「40万セステルティウス以上の資産を持つローマ市民」へと改正。
- 小麦の無料給付者を15万人に半減。審査按察官の設置。
- 失業者と退役兵の植民先を属州に分散。カルタゴとコリントスを再興。
- 教師と医師へのローマ市民権の授与。
- カエサルのフォルム建設、フォルム・ロマヌム、市街地の拡大などの再開発を進めるためにセルウィウス城壁を撤去した。そしてそれは「ローマの平和は国境防衛線で守られるものである以上、首都では防壁など不要である」という宣言でもあった。
- 干拓・街道の整備延長やほかの公共事業。
- ローマ暦(太陰暦)を改正、ユリウス暦(太陽暦)を制定[38]。これはのちにグレゴリオ暦が制定されるまで、1600年以上にわたってヨーロッパ各地で使われ続けることとなった。
文筆家として
評価
- カエサルは、文筆家としての才能も高く評価されており、マルクス・トゥッリウス・キケロとともに、ラテン文学の散文における双璧をなしている。特に『ガリア戦記』の雄渾で簡潔な文体は高く評価されている。また、上述した引用句も特徴的である。
- 終身独裁官に就任して以降、カエサルは度々王位への野心を露にしたとプルタルコスは伝えている。一例として、パルティアへの遠征計画を挙げており、ローマで予言書とされた『シビュラ予言書』には「王を戴かない限り、ローマ人はパルティアは征服できない」と記載されていたという[39]。この時期、カエサルはローマ市民から憎悪されていたこともあって、共和主義者による暗殺計画を呼び込む一因となったとしている[40]。
- イタリアの歴史の教科書には「指導者に求められる資質は、次の五つである。すなわち、知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。そして、カエサルだけが、このすべてを持っていた」という記述がある[41]。
- ドイツの歴史家であり、ローマ史によってノーベル文学賞を受賞したテオドール・モムゼンは、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」と評した。
- モンテスキューは、次のように評している。「人々は、カエサルの幸運についてしきりに語る。しかし、この非凡な人物は、多くのすぐれた素質もあり、欠陥はないわけでなく、多くの悪徳を積みもしたが、どんな軍隊を指揮したところで勝利者となったろうし、どんな国家に生まれたところで、それを統治したことであろう」[42]
人物像
カエサルが元老院議員として初めて表舞台に出た頃の評価は、「借金王」や「ハゲの女たらし」と言ったものであった。事実、借金は天文学的でとてつもない金額であった。紀元前61年春に、プロプラトエルとしてヒスパニアへ赴く前、カエサルが高飛びすることを恐れて出発を妨げたため、カエサルは、最大の債権者クラッススに泣きつき、債務保証をしてもらい、ようやく任地に出発できた[43]。もっとも、借金の額があまりにも大きく、カエサルに死なれでもしたら債権者たちは大損となってしまうため、カエサルと彼らとの力関係は、非常に微妙なものだったとも言われる[44]。「ハゲの女たらし」(羅: moechus calvus)と言われることを受け入れていたことは、カエサルの寛容さを説明する際に引き合いに出される。
また、カエサル自身が総督として赴任したヒスパニアで現地の部族より金を無心したり、ガリアで現地部族が奉納している神殿や聖域にあった宝飾物を強奪したり、金目当てで街を破壊して回ったりということもあった。また、ローマでもカピトリヌスの神殿に奉納していた金塊を盗み、同重量の金メッキをした銅を戻したり[45]、内戦中は護民官の制止を振り切って神殿の財貨を強奪したとした[46]と伝わっている。
カエサルは、背が高く引き締まった体をしていたが、当時の美男子の条件である「細身、女と見紛うほどの優男」には当てはまらなかった、また、頭髪が薄いことを政敵から攻撃されたため、はげた部分を隠すのに苦労していた。このため、内戦を終結させた業績を認められたことにより、いつ、どこでも月桂冠を被る特権を与えられたときは、大変喜んだという。なお、当時のカエサルが前髪の薄さを隠すためにしていた髪型は、シーザーカット(英語版)(カエサルカット)と呼ばれており、ヨーロッパでは古くから典型的な男性の髪型の一種となっている。また、てんかんの症状があったとも伝わっている[47]。
カエサルの妻と愛人たち
紀元前62年、男性禁制のボナ・デアの儀式の際、妻ポンペイアが女装した情夫を引き入れたとされる騒動が起こった。カエサルは女装した犯人のプブリウス・クロディウス・プルケルを弁護し彼の無実を訴えながらも、「カエサルの妻たるものは、いかなる嫌疑も受けてはならない」と言い、その年のうちに妻と離婚した[48]。
また、カエサルには多くの愛人がいた。やや誇張と思われるが、一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られたと伝えられている。このためカエサルには「ハゲの女たらし」と渾名された。古代ローマでは凱旋式の際に、軍団兵たちが将軍をからかう野次を飛ばす習慣があったが、カエサルの凱旋式においての軍団兵たちは「夫たちよ、妻を隠せ。薬缶頭(ハゲ)の女たらしのお通りだ」と叫んだ[49]。
なお、カエサルが関係を持ったと何らかの記述がある女性は以下の通りであり、他にも多くの女性と関係したと思われる。ただし記録にある限り、子宝にはほとんど恵まれなかった。
- 妻
- コルネリア - ルキウス・コルネリウス・キンナの娘。最初の妻
- ユリア - 長女、グナエウス・ポンペイウスと結婚、紀元前54年死去
- ポンペイア - 2番目の妻、紀元前62年離婚
- カルプルニア - ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスの娘。最後の妻
- コルネリア - ルキウス・コルネリウス・キンナの娘。最初の妻
- 愛人
- コッスティア - 騎士階級の娘。婚約するも、コルネリアと結婚するために婚約破棄
- セルウィリア - マルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスの姉、マルクス・ユニウス・ブルトゥスの母
- ポストゥミア - セルウィウス・スルピキウスの妻。
- ロリア - アウルス・ガビニウスの妻。
- テルトゥラ - マルクス・リキニウス・クラッススの妻。
- ムキア - ポンペイウスの妻。
- クレオパトラ7世 - プトレマイオス朝エジプトのファラオ。
- カエサリオン - 長男(諸説あり)。
- エウノエ - マウレタニア王ボグドの妻。