チンギス・カンⅡ【前】
チンギス・カンの子孫
モンゴル帝国
モンゴル帝国のもとではチンギス・カンとその弟たちの子孫は、「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、ノヤンと呼ばれる一般の貴族たちよりも一層上に君主として君臨する社会集団になった。またモンゴル帝国のもとでは遊牧民に固有の男系血統原理が貫かれ、チンギス・カンの男系子孫しかカンやカアン(モンゴル皇帝)に即位することができないとする原則(チンギス統原理)が広く受け入れられるようになった。
13世紀の後半に、モンゴル帝国の西半でジョチ、チャガタイ、トルイの子孫たちはジョチ・ウルス、チャガタイ・ハン国、イルハン朝などの政権を形成していくが、これらの王朝でもチンギス統原理は根付き、チンギスの後裔が尊ばれた。
チンギス統原理はその後も中央ユーラシアの各地に長く残り、18世紀頃まで非チンギス裔でありながら代々ハーンを名乗った王朝はわずかな例外しか現れなかった。モンゴルやカザフでは、20世紀の初頭まで貴族階層のほとんどがチンギス・カンの男系子孫によって占められていたほどであり、現在もチンギス裔として記憶されている家系は非常に多い。
こうしたチンギス裔の尊崇に加え、非チンギス裔の貴族たちも代々チンギス・カン家の娘と通婚したので、チンギス裔ではなくとも多くの遊牧民は女系を通じてチンギス・カンの血を引いていた。また、チンギスの女系子孫はジョチ・ウルスの貴族層とロシア貴族の通婚、ロシア貴族とヨーロッパ貴族の通婚を通じてヨーロッパに及んでいるという。
オクスフォード大学のY染色体調査研究
2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームは、DNA解析の結果、チンギス・カンが世界中でもっとも子孫を多く残した人物であるという結論を発表した。ウランバートル生化研究所との協力によるサンプル採取と解析の結果、彼らによれば、モンゴルから北中国にかけての地域で男性の8%、およそ1300万人に共通するY染色体ハプロタイプが検知出来たという。この特徴を有する地域は中東から中央アジアまで広く分布し、現在までにそのY染色体を引き継いでいる人物、すなわち男系の子孫は1600万人にのぼるとされる。研究チームはこの特有のY染色体の拡散の原因を作った人物は、モンゴル帝国の創始者チンギス・カンであると推測しており、この解析でマーカーとされた遺伝子は、突然変異頻度に基づく分子時計の推計計算により、チンギス・カンの数世代前以内に突然変異によって生じた遺伝子である可能性が高いという仮説を発表した([1]、[2])[9]。
この研究を主導したひとりクリス・テイラー=スミス Chris Tyler-Smith は、チンギス・カンのものと断定する根拠として、このY染色体は調査を行った地域のひとつ、ハザーラ人やパキスタン北部のフンザの例をあげている。フンザではチンギス・カンを自らの先祖とする伝説があり、この地域はY染色体の検出が特に多かったという。さらに、彼は東洋で比較的短期間に特定のY染色体を持つ人々が広がった根拠として、これらの地域の貴族階級では一夫多妻制が一般的であり、この婚姻習慣はある意味で、生殖戦略として優れていたためではないか、と述べている。
しかしながら、この論説に対しては批判もあり、特に集団遺伝学者でスタンフォード大学のルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァは、Y染色体の広範な分布について、共通の先祖を想定することには同意出来るものの、これを歴史上のある特定の人物の子孫であると特定するには正確さを欠いている、として異議を唱えている。さらに、分布の状況と一夫多妻制が原因しているとするテイラー=スミスの見方に対しても、「あまりに短絡的かつ扇情的」であるとして非難している[10]。(同研究グループは同様の別の研究で、東アジアの男性約1000人のうち3.3%に現れた特定のY染色体について、その共通祖先は清朝初代皇帝ヌルハチの祖父ギオチャンガに比定しているが、カヴァッリ=スフォルツァはこの断定にも同様に根拠が薄弱であるという理由で異議を唱えている)
オックスフォード・アンセスターズの遺伝学者ブライアン・サイクスも研究が発表された2003年に出版した著書『アダムの呪い』で上記の研究を紹介しているが、「状況証拠は有力だが、残念ながら証明はできない」としながらも、検出されたY染色体についてチンギス・カンのものであるとほぼ断定している。同氏は人類の繁殖と拡大にはY染色体による男性の暴力的な性格や支配欲が密接に関係しているとする見解に立っており、チンギス・カンに対する人物評についても「チンギスハーン本人が、みずからのY染色体の野心によって突き動かされ、戦でも寝床でも、勝利することになった」という見方をしている[11]。だが同氏の見解のとおりだと、英国にも一定頻度で同様のY染色体キャリアがいることについて説明が出来ない、との反論がある[12]。
ケンブリッジ サンガー研究所のアジア人起源研究
大手遺伝子研究所であるケンブリッジ サンガー研究所のカーシム・アユブ博士(Qasim Ayub, PhD Sanger Institute,CAMBRIDGE) らはアジア人の起源について研究していた。 アジア全域から集められた2000人以上の男性の血液サンプルを採取しDNAを抽出。 分析の結果、対象サンプルの多くがある同一の家系に属していることが判明した。 対象の8%にほぼ同一のマイクロサテライト(DNAの短い配列の繰り返し)が見られた。 考えられるのは彼らには同じDNAを持つ共通の祖先がいるということ。 その祖先がどの時代の人物かを割り出すと、およそ1000年前で、さらにその遺伝子の発祥地はモンゴルであることも判明した。 モンゴルで同一の遺伝子集団が多く見られたこと、また時代を考慮すると、その祖先とはチンギス・ハンである可能性が高いという。世界の3200万人がその遺伝子を引き継いでいると結論づけた。
再評価
このようにモンゴルの建国の英雄として称えられるチンギス・カンだが、社会主義時代のモンゴル人民共和国では侵略者として記述されることがあった。
モンゴル人民共和国はスフバートル、ダンザン、ボドー、チョイバルサン、ドクソム(英語版)、チンギス・カンの直系子孫であるモンゴル学者ビャムビーン・リンチェン(英語版)や王侯ナヴァーンネレン(中国語版)等のモンゴル民族主義者で構成されたモンゴル人民党(後にモンゴル人民革命党)がソビエト連邦の赤軍の支援を受けて独立させた国家であり、建国後も常にソ連の東側陣営に属する衛星国だったが、当初はリンチノ(英語版)ら汎モンゴル主義者を抱えていることから革命のためにチンギス・カンを政治的利用させた。1960年代にはトゥムルオチル(英語版)政治局員らがチンギス・カンの生誕800周年を祝い、チンギス・カンの研究者を集めたシンポジウムを開いて切手も発行され、チンギス・カンの故郷とされたダダル郡に記念碑が建設された[13]。1962年にトゥムルオチル政治局員のライバルだった当時の首相ツェデンバルは、中ソ対立とこの祝賀を機にトゥムルオチルを「民族偏向主義者」「中国寄り」であるということで追放した[14]。以後チンギス・カンは批判されていった。
モンゴルでの民主化が進むと、かつては栄光に彩られた自国の歴史を再認識しようとする動きが急速に強まった。そして、新生モンゴル国ではチンギス・カンが再び称賛され、国民からの崇拝を集めることになり、チンギス・カンの像も公然と建つようになった。また、中華人民共和国でも内モンゴル自治区のフフホト市やオルドス市、ホーリンゴル市や吉林省などでチンギス・カンの像が建っているように崇拝を集めているが、1995年に人権活動家のハダとモンゴル族の若者が集まりチンギス・カンの肖像を掲げてモンゴルの歌を放吟したが「国家分裂扇動」「スパイ活動」をしたとして逮捕・拘禁されている。
また、チンギス・カン率いるモンゴル帝国の戦闘ぶりは、「来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」と評されている。[要出典]
人物
- ある日、チンギス・カンは重臣の一人であるボオルチュ・ノヤンに「男として最大の快楽は何か」と問いかけた。ノヤンは「春の日、逞しい馬に跨り、手に鷹を据えて野原に赴き、鷹が飛鳥に一撃を加えるのを見ることであります」と答えた。チンギスが他の将軍のボロウルにも同じことを問うと、ボロウルも同じことを答えた。するとチンギスは「違う」と言い、「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その敵の妻と娘を犯すことにある」と答えた。(モンゴル帝国史)
宗室
『集史』チンギス・ハン紀によると、大ハトゥンと呼ばれる最上位の妃が5人いたことが述べられ、『元史』では大オルドを監督する4人の皇后の元に30人の妃たちが置かれていたこと述べる。イルハン朝、ティムール朝時代の資料に準拠。漢字表記は『元史』「后妃表」による。
父母兄弟
- 父 イェスゲイ
- 母 ホエルン
- 次弟 ジョチ・カサル
- 三弟 カチウン
- 四弟 テムゲ・オッチギン
- 異母弟 ベルグテイ・ノヤン
- 『元朝秘史』ではジョチ・カサルの下にもう一人ベクテルという、ベルグテイの同母兄と思しき弟がいたが、イェスゲイ没後の貧窮時に諍いを起こし、このベクテルをテムジンはジョチ・カサルと謀って射殺したため、これを知った母ホエルンはテムジンとジョチ・カサルを憤怒して叱責したという。この逸話は『元朝秘史』とその系統の資料にのみ現れ、『集史』『元史』『聖武親征録』など他の資料には載っていないため、ベクテルの存在そのものは疑わしいと考えられている。
- 妹 テムルン - コンギラト部族の一派イキレス氏族の首長ブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ
后妃
チンギスの皇后のうち、大ハトゥンは5人いたとし、ボルテを第1位、クランを第2位、イェスゲンを第3位、公主ハトゥン (كونجو خاتون Kūnjū Khātūn) こと岐国公主を第4位、イェスルン(イェスイ)を第5位とする。一方、『元史』「后妃表」によると、ボルテ、クラン、イェスイ(イェスルン)、イェスゲンはそれぞれ大オルド、第二オルド、第三オルド、第四オルドを管轄していたという。
大オルド
第二オルド
- クラン(忽蘭皇后) ウハズ・メルキト部族長ダイル・ウスンの娘
- 哈児八真皇后
- 亦乞剌真皇后
- 脱忽茶児皇后
- 也真妃子
- 也里忽禿妃子
- 察真妃子
- 哈剌真妃子
第三オルド
- イェスルン(イェスイ 也速皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスゲンの妹
- 忽魯哈剌皇后
- 阿失倫皇后
- 禿児哈剌皇后
- 察児皇后
- 阿昔迷失皇后
- 完者忽都皇后
- 渾魯忽歹妃子
- 忽魯灰妃子
- 剌伯妃子
- 岐国公主 金朝皇帝・衛紹王の娘
第四オルド
- イェスゲン(也速干皇后) トトクリウト・タタル部族出身。イェスルンの姉
- 忽答罕皇后
- 哈答皇后
- 斡者忽思皇后
- 燕里皇后
- 禿干妃子
- 完者妃子
- 金蓮妃子
- 完者台妃子
- 奴倫妃子
- 卯真妃子
- 鎖郎哈妃子
- 八不別及妃子
『集史』チンギス・ハン紀后妃表には5人の大ハトゥン以外の主な后妃や側室(クマ Quma)について記録されている。
- ベクトゥトミシュ・フジン ケレイトのジャガ・ガンボの娘でトルイの妃ソルコクタニ・ベキらの姉妹。
- グルベス・ハトゥン ナイマン部族連合の首長タヤン・ハンの第一ハトゥンだった人物。
- チャク・ハトゥン 西夏皇帝の娘。
- 氏名不明 ナイマン出身。ジョルチダイの母
子女
『集史』ではボルテとの間に儲けた四男五女の他に男女数人を記録するが、『元史』では「六子」とする。これらの多くの男子のうち、 クビライの時代以降も存続したことが確認できるのは、ジョチ家、チャガタイ家、オゴデイ家、トルイ家、コルゲン家の5系統のみである(『集史』チンギス・ハン紀、『元史』宗室世系表ほか、『五族譜』や『高貴系譜』、『南村輟耕録』などのモンゴル時代以降の系譜資料に基づく)。
男子
- ジョチ 母 ボルテ
- チャガタイ 母 ボルテ
- オゴデイ 母 ボルテ
- トルイ 母 ボルテ
- コルゲン(次六 闊列堅太子) 母 クラン
- チャウル 母 イェスゲン
- ジョルチダイ
- ウルジュカン(次五 兀魯赤、無嗣)
- 氏名不明 母 タタル部族出身の側室
女子
- コアジン・ベキ - 叔母であるテムルンの死後、イキレス氏のブトゥ・キュレゲンに嫁ぐ
- チェチェゲン - 『元朝秘史』ではオイラト駙馬家の首長クドカ・ベキの息子イナルチに与えられたというが、『元史』『集史』ではイナルチの弟トレルチに与えられたとされる
- アラガイ・ベキ - オングト駙馬王家の首長アラクシ・テギン・クリの孫ボヤンカに嫁ぐ
- トムルン - 同族であるオルクヌウト氏族でボルテの弟アルチ・ノヤンの長男チグウ・キュレゲンに嫁ぐ
- アルタルン - ホエルンの弟タイチュ・キュレゲンの息子チャウル・セチェンに嫁ぐ
- イル・アルタイ(アル・アルトゥン) - 母不詳。天山ウイグル王国に嫁ぐ。
名前
チンギス・カンの呼称は、歴史的に見て「チンギス・カン」系と「チンギス・カアン」系の2種類に大別出来る。
「チンギス・カン」系の資料
本来、13 - 14世紀当時の中期モンゴル語では「チンギス・カン」 (Činggis Qan) と称していたことが同時代資料の調査から分かっている。
これは、当時のウイグル文字モンゴル語ではイェスンゲ紀功碑などでも CYNKKYZ Q'N (Činggis Qan) と書かれ、第5代モンゴル皇帝クビライの大元ウルスで開発されたパスパ文字によるモンゴル語皇帝聖旨碑文でも ǰiṅ-gis qa-nu とある[17]。
また13世紀のアラビア語・ペルシア語年代記では、イブン・アル=アスィールの『完史 (al-Kāmil fī al-Ta'rīkh) 』(1231年成立)やシハーブッディーン・ムハンマド・ナサウィーの『ジャラールッディーン伝 (Sīrat al-Sulṭān Jalāl al-Dīn Mankubirtī) 』(1240年代初頭成立)、ジューズジャーニーの『ナースィル史話 (Tabaqāt-i Nāṣirī) 』(1260年成立)といったモンゴル帝国外で成立した資料では جنكيز خان Jinkīz Khān (ペルシア語資料の刊本では現在のペルシア文字の چ č/ch や گ g が補われて چنگيز خان Chingīz Khān )などと表記されており、モンゴル帝国側の資料と言えるジュヴァイニーの『世界征服者の歴史』(1260年成立)でもやはり چنگيز خان Chingīz Khān などとなっている。ラシードゥッディーンの『集史』(1314年成立)では編者のラシード在世中に書写された紀年(1317年書写)を持つ現存最古の写本、いわゆる「イスタンブール本」(Revân köşkü No. 1518)では、(ウイグル文字での綴りを反映していると思われるが) چينككيز خان Chīnkkīz Khān とあって同書では「チンギス・カン」は一貫してこの綴りを用いている。このように13 - 14世紀のモンゴル帝国内外のアラビア語・ペルシア語文献ではチンギス・カンの「カン」 (Qan) の部分は、従来からあったテュルク語の χan (ハン)のアラビア文字転写である خان khān を用いた。