始皇帝Ⅰ【序】 

 

韓・趙の滅亡

秦は強大な軍事力を誇り、先代・荘襄王治世の3年間にも領土拡張を遂げていた[24]。秦王政の代には、魏出身の尉繚の意見を採用し、他国の人間を買収してさまざまな工作を行う手段を用いた。一度は職を辞した尉繚は留め置かれ、軍事顧問となった[41]

韓非が死んだ3年後の秦王政17年(前230年)、韓は陽翟が陥落して王の安が捕縛されて滅んだ[41]秦韓の戦い(中国語版))。次の標的になった趙には、幽繆王の臣・郭開への買収工作がすでに完了していた。との連合も情報が漏れ、旱魃地震災害[45][46]につけこまれた秦の侵攻にも讒言で李牧司馬尚を解任してしまい、簡単に敗れた(秦趙の戦い中国語版))。趙王は捕らえられたが、兄の公子嘉代郡河北省)に逃れた。王は捕虜となり国は秦に併合された[47]。生まれた邯鄲に入った秦王政は、母の大后の実家と揉めていた者たちを生き埋めにして秦へ戻った[47]。なお、紀元前228年に母が死去した。

暗殺未遂と燕の滅亡

詳細は「荊軻」を参照

は弱小な国であった[48]太子の丹はかつて人質として趙の邯鄲で過ごし、同じ境遇の政と親しかった。政が秦王になると、丹は秦の人質となり咸陽に住んだ。このころ、彼に対する秦の扱いはかつての趙が政へ向けた態度同様に礼に欠いた[47]。『燕丹子』という書によると、帰国の希望を述べた丹に秦王政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と言った。ありえないことに丹が嘆息すると、白い頭の烏と角が生えた馬が現れた。やむなく秦王政は帰国を許したという[47]。実際は脱走したと思われる[49]丹は秦に対し深い恨みを抱くようになった[47][50]

逃げる秦王政(左)と襲いかかる荊軻(右)。中央上に伏せる者は秦舞陽、下は樊於期の首。武氏祠中国語版)石室。

両国の間にあった趙が滅ぶと、秦は幾度となく燕を攻め、燕は武力では太刀打ちできなかった[48]。丹は非常の手段である暗殺計画を練り、荊軻という刺客に白羽の矢を立てた[7][48]。秦王政20年(前227年)、荊軻は秦舞陽中国語版)を供に連れ、督亢(とくこう)の地図と秦の裏切り者・樊於期の首を携えて秦王政への謁見に臨んだ[48][47]。地図の箱を手にした秦舞陽が差し出そうとしたが、恐れおののき秦王になかなか近づけなかった。荊軻は、「供は天子の威光を前に目を向けられないのです」と言いつつ進み出て、地図と首が入る二つの箱を持ち進み出た。受け取った秦王政が、開いた地図の巻物から現れた匕首を手に、荊軻は襲いかかった。秦王政は身をかわしたが、護身用の剣を抜くのに手間取った。宮殿の官僚たちは武器所持を、近衛兵は許可なく殿上に登ることを秦の「法」によって厳しく禁じられ、大声を出すほかなかった。しかし、従医の夏無且が投げた薬袋が荊軻に当たり、剣を背負うよう叫ぶ臣下の言に秦王政はやっと剣を手にし、荊軻を斬り倒した。二人のいつわりの使者は処刑された。

秦王政は激怒し、燕への総攻撃を仕掛けた(秦燕の戦い(中国語版))。暗殺未遂の翌年には首都・を落とした。荊軻の血縁をすべて殺害しても怒りは静まらず、ついには町の住民全員も虐殺された。その後の戦いも秦軍は圧倒し、遼東に逃れた燕王喜は丹の首級を届けて和睦を願ったが聞き入れられず、5年後には捕らえられた。

魏・楚・斉の滅亡

次に秦の標的となった魏は、かつて五ヵ国の合従軍を率いた信陵君を失い弱体化していた。それでも、黄河と梁溝を堰き止めて首都・大梁を水攻めされても3か月は耐えたが、秦王政22年(前225年)に降伏し、魏も滅んだ(秦魏の戦い(中国語版))。

そしてついに、秦と並ぶ強国・楚との戦いに入った[52]秦楚の戦い(中国語版))。秦王政は若い李信蒙恬に20万の兵を与え指揮を執らせた。緒戦こそ優勢だった秦軍は楚軍の猛追に遭い大敗した。秦王政は老将軍・王翦に秦の全軍に匹敵する60万の兵を託し、秦王政24年(紀元前223年)に楚を滅ぼした。

最後に残った斉は約40年間ほとんど戦争をしていなかった。それは、秦が買収した宰相・后勝とその食客らの工作もあった。秦に攻められても斉は戦わず、后勝の言に従い無抵抗のまま降伏し滅んだ(秦斉の戦い(中国語版))。秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政26年(前221年)39歳であった。。

始皇帝王朝

現代になって兵馬俑近郊に建設された始皇帝像

皇帝

中国が統一され、初めて強大なひとりの権力者の支配に浴した。最初に秦王政は、重臣の王綰馮劫・李斯らに称号を刷新する審議を命じた。それまで用いていた「王」はの時代こそ天下にただ一人の称号だったが、春秋・戦国時代を通じ諸国が成立し、それぞれの諸侯が名乗っていた。統一を成し遂げた後には「王」に代わる尊称が求められた。王綰らは、五帝さえ超越したとして三皇の最上位である「秦皇」の号を推挙し、併せて指示を「命」→「制」、布告を「令」→「詔」、自称を謙譲的な「寡人」→「朕」にすべしと答申した。秦王政は号のみ自ら変え、新たに「皇帝」の称号を使う決定を下した。なお、戦国時代の秦王は、斉王とともに、一時期であるが西帝・東帝を名乗っていた。

また秦王政は、王の行いを評して死後贈られるの制度を、臣下が君主をあげつらうものとして廃止した。そして自らを「始皇帝」とし、次代から「二世」「三世」と数えるように定めた。

五徳終始

始皇帝はまた戦国時代に成立した五行思想(木、火、土、金、水)と王朝交代を結びつける説を取り入れた。これによると、周王朝は「赤」色の「火」で象徴される徳を以って栄えたと考えられる。続く秦王朝は相克によって「火」を討ち滅ぼす「黒」色の「水」とされた。この思想を元に、儀礼用衣服や皇帝の旗(旄旌節旗)には黒色が用いられた。五行の「水」は他に、方位の「」、季節の「」、数字の「6」でも象徴された。

政治

始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆した。政治支配は中央集権が採用されて被征服国は独立国の体を廃され、代わって36のが置かれ、後にその数は48に増えた。郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定められた。これは郡県制を中国全土に施行したものである。

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招くと強硬に主張した李斯の意見が採られた。こうして、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった。人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった。

経済その他

始皇帝と李斯は、度量衡通貨荷車幅(車軌)、また位取り記数法などを統一し、市制の標準を定めることで経済の一体化を図った。さらに、各地方の交易を盛んにするため道路運河などの広範な交通網を整備した。各国でまちまちだった通貨は半両銭に一本化された。そして最も重要な政策に、漢字書体の統一が挙げられる。李斯は秦国内で篆書体への一本化を推進した。皇帝が使用する文字は「篆書」と呼ばれ、これが標準書体とされた。臣下が用いる文字は「隷書」として、程邈という人物が定めたというが、一人で完成できるものとは考えにくい。その後、この書体を征服したすべての地域でも公式のものと定め、中国全土における通信網を確立するために各地固有の書体を廃止した。

度量衡を統一するため、基準となる長さ・重さ・容積の標準器が製作され各地に配られた。これらには篆書による以下の詔書(権量銘)が刻まれている。

廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之
始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。— 青銅詔版

大土木工事

阿房宮図。清代の袁耀作。

咸陽と阿房宮

始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、また諸国の武器を集めて鎔かし十二金人(英語版)を製造した。これは地方に残る財力と武力を削ぐ目的で行われた。咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した。人口は膨張し、従来の渭水北岸では手狭になった。

始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。ここには恵文王時代に建設された宮殿があったが、始皇帝はこれを300里前後まで拡張する計画を立てた。最初に1万人が座れる前殿が建設され、門には磁石が用いられた。居所である紫宮は四柱が支える大きなひさし(四阿旁広)を持つ巨大な宮殿であった。

名称「阿房」の由来には諸説あり、「阿」が近いという意味から咸陽近郊の宮を指すとも[71]、四阿旁広の様子からつけられたとも、始皇帝に最も寵愛された妾の名とも言われる。

始皇帝陵 (驪山)

秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手した。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではないが、陵墓は規模が格段に大きかった。阿房宮の南80里にある驪山(所在地:北緯34度22分52.75秒 東経109度15分13.06秒)が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大された。始皇帝の晩年には建設に70万人もの労働者が動員されたという記録がある。

木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められた。その中に宮殿や楼観が造られた。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたという。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれた。

1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになった。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測される。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行った。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認された。

なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっているが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていた。

秦代の長城。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至る。

現代に残る霊渠

万里の長城

詳細は「万里の長城」を参照

中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の遊牧民であった。戦国七雄が争っていたころは匈奴東胡月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にあった。しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じた。。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせた。そして巨大な防衛壁建設に着手した。何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものであった。

霊渠

詳細は「霊渠」を参照

中国南部の有名なことわざに「北有長城、南有靈渠」というものがある。始皇33年(前214年)、始皇帝は軍事輸送のため大運河の建設に着手し、中国の南北を接続した。長さは34kmに及び、長江に流れ込む湘江と、珠江の注ぐ漓江との間をつないだ。この運河は中国の主要河川2本をつなぐことで秦の南西進出を支えた。これは、万里の長城・四川省の都江堰と並び、古代中国三大事業のひとつに挙げられる。

天下巡遊

中国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。最初に訪れた隴西(甘粛省東南・旧隴西郡)と北地(甘粛省慶陽市寧県・旧北地郡)はいずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。

しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった。これは『書経』「虞書・舜典」にあるが各地を巡遊した故事に倣ったものとも考えられる。始皇帝が通行するために、幅が50歩(67.5m)あり、中央には松の木で仕切られた皇帝専用の通路を持つ「馳道」が整備された。

始皇帝の天下巡遊路

順路は以下の通りである。

これら巡遊の証明はもっぱら『史記』の記述のみに頼っていた。しかし、1975-76年に湖北省雲夢県の戦国‐秦代の古墳から発掘された睡虎地秦簡の『編年紀』と名づけられた竹簡の「今二十八年」条の部分から「今過安陸」という文が見つかった。「今」とは今皇帝すなわち始皇帝を指し、「二十八年」は始皇28年である紀元前219年の出来事が書かれた部分となる。「今過安陸」は始皇帝が安陸(湖北省南部の地名)を通過したことを記録している。短い文章ではあるが、これは同時期に記録された巡遊を証明する貴重な資料である。

封禅

第1回目の巡遊は主に東方を精力的に回った。途中の秦山にて、始皇帝は封禅の儀を行った。これは天地を祀る儀式であり、天命を受けた天子の中でも功と徳を備えた者だけが執り行う資格を持つとされ、かつて斉の桓公が行おうとして管仲が必死に止めたと伝わる。始皇帝は、自らを五徳終始思想に照らし「火」の周王朝を次いだ「水」の徳を持つ有資格者と考え、この儀式を遂行した。

しかし管仲の言を借りれば、最後に封禅を行った天子は周の成王であり、すでに500年以上の空白があった。式次第は残されておらず、始皇帝は儒者70名ほどに問うたが、その返答はばらばらで何ら参考になるものはなかった。結局始皇帝は彼らを退け、秦で行われていた祭祀を基にした独自の形式で封禅を遂行した。頂上まで車道が敷かれ、南側から登った始皇帝は山頂に碑を建て、「封」の儀式を行った。下りは北側の道を通り、近郊の梁父山で「禅」の儀式を終えた。

この封禅の儀は、詳細が明らかにされなかった。排除された儒家たちは「始皇帝は暴風雨に遭った」など推測による誹謗を行ったが、儀礼の不具合を隠す目的があったとか、我流の形式であったため後に正しい方法がわかったときに有効性を否定されることを恐れたとも言われる。吉川忠夫は、始皇帝は秦山で自らの不老不死を祈る儀式も行ったため、全容を秘匿する必要があったのではとも述べた。

神仙への傾倒

不死の妙薬を求めて紀元前219年に出航した徐巿の船。

秦山で封禅の儀を行った後、始皇帝は山東半島を巡る。これを司馬遷は「求僊人羨門之屬」と書いた。僊人とは仙人のことであり、始皇帝が神仙思想に染まりつつあったことを示し、そこに取り入ったのが方士(英語版)と呼ばれる者たちであった。方士とは不老不死の秘術を会得した人物を指すが、実態は「怪迂阿諛苟合之徒」と、怪しげで調子の良い(苟合)話によって権力者にこびへつらう(阿諛 – ごまをする)者たちであった。

その代表格が、始皇帝が瑯邪で石碑(琅邪台刻石)を建立した後に謁見した徐巿である。斉の出身である徐巿は、東の海に伝説の蓬莱山など仙人が住む山(三神山)があり、それを探り1000歳と言われる仙人・安期正(中国語版)を伴って帰還するための出資を求める上奏を行った。始皇帝は第1回の巡遊で初めて海を見たと考えられ、中国一般にあった「海は晦なり」(海は暗い‐未知なる世界)で表される神秘性に魅せられ、これを許可して数千人の童子・童女を連れた探査を指示した。第2回巡遊でも琅邪を訪れた始皇帝は、風に邪魔されるという風な徐巿の弁明に疑念を持ち、他の方士らに仙人の秘術探査を命じた。言い逃れも限界に達した徐巿も海に漕ぎ出し、手ぶらで帰れば処罰されることをよく知っていた一行は戻ってくることはなかった。伝説では、日本にたどり着き、そこに定住したともいう。

刻石

各地を巡った始皇帝は、伝わるだけで7つの碑(始皇七刻石)を建立した。第1回では嶧山と封禅を行った秦山そして琅邪、第2回では之罘に2箇所、第3回では碣石、第4回では会稽である。現在は泰山刻石と瑯琊台刻石の2碑が極めて不完全な状態で残されているのみであり、碑文も『史記』に6碑が記述されるが嶧山刻石のそれはない。碑文はいずれも小篆で書かれ、始皇帝の偉業をたたえる。

逸話

始皇帝の巡遊にはいくつかの逸話がある。第1回の旅で彭城に立ち寄った際、を探すため泗水に千人を潜らせたが見つからなかったと『史記』にある。これは昭王の時代に周から秦へ渡った九つの鼎の内の失われた一つであり、始皇帝は全てを揃え王朝の正当性を得ようとしたが、かなわなかった。この件について北魏時代に酈道元が撰した『水経注』では、鼎を引き上げる綱をが噛みちぎったと伝える。後漢時代の武氏祠(中国語版)石室には、この事件を伝える画像石「泗水撈鼎図」があり、切れた綱に転んだ者たちが描かれている[93]

『三斉略記』は、第3回巡遊で碣石に赴いた際に海神とのやりとりがあったことを載せている。この地で始皇帝は海に石橋を架けたが、この橋脚を建てる際に海神が助力を与えた。始皇帝は会見を申し込んだが、海神は醜悪な自らの姿を絵に描かないことを条件に許可した。しかし、臣下の中にいた画工が会見の席で足を使い筆写していた。これを見破った海神が怒り、始皇帝は崩れゆく石橋を急ぎ引き返して九死に一生を得たが、画工は溺れ死んだという。