優生学入門Ⅰ(前半)悪忍殺別【人喰鼠講黒害宇虫塵絶縁】 

 

 

 

 

アメリカ優生学協会 BL・ゲイツ=ベルゼブブ=BBQ

1926年にはハリー・クランプトンハリー・H・ローリンマディソン・グラントヘンリー・フェアフィールド・オズボーンなどによって、アメリカ優生学協会が創設された[22]1926年から1994年までの20世紀後半期の著名な会員には状況倫理の創始者のジョーゼフ・フレッチャー英語版)、P&G財団のクラレンス・ギャンブル英語版)博士、産児制限の提唱者で『共有地の悲劇』の著者のギャレット・ハーディンらが含まれる。

産児制限

一般的に優生学の概念に同意しない立場においても優生学的立法は依然として公益性を有すると主張している人々が存在した一例として、米国産児制限協会英語版)創立者のマーガレット・サンガーは優生学に基づいて、産児制限(バース・コントロール)運動を展開した[23]。当時優生学は科学的かつ進歩的な思想であり、人間の生命の領域に、産児に関して科学的な知見を応用するものであると多くの人々から理解されていた。第二次世界大戦の強制絶滅収容所以前、優生学がジェノサイドに繋がる恐れがあるとする考え方は真剣には受け取られなかった。

欧州における優生政策

ナチスドイツにおける優生政策

ナチスドイツの最高指導者であったアドルフ・ヒトラーは優生学の信奉者であり、「ドイツ民族、即ちアーリア系を世界で最優秀な民族にするため」に、「支障となるユダヤ人」の絶滅を企てた(ホロコースト)以外に、長身・金髪碧眼の結婚適齢期の男女を集めて強制的に結婚させ、「ドイツ民族の品種改良」を試みた。民族衛生の旗の下に実施された様々な優生計画を通して、純粋ゲルマン民族を維持する試みが行われた。つまり、強制断種と強制結婚を両用したのが、ナチスドイツである。

1930年代エルンスト・リューディンドイツ語版)が優生学的な言説をナチスドイツの人種政策に融合させる試みを開始し始めた。

人体実験
ナチス政府は、自らの遺伝理論を検証するために様々な人体実験を行った。それは単純な身体的特徴の測定から、ヨーゼフ・メンゲレオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアーに対して強制収容所で行わせた双生児への驚愕すべき実験まで広範に渡るものである。
T4作戦
1933年から1945年まで、ナチス政府は、精神的または肉体的に「不適格」と判断された数十万の人々に対して強制断種を行い、強制的安楽死計画によって施設に収容されていた数万の人々を殺害した(T4作戦)。
レーベンスボルン(生命の泉)計画
ナチス政府は「積極的優生政策」をも実施し、多産のアーリア民族の女性を表彰し、また「レーベンスボルン(生命の泉)計画」によって「人種的に純粋」な独身の女性がSS(ナチス親衛隊)の士官と結婚し、子供をもうけることを奨励した。

ナチス政府による優生学や民族浄化への関心は、ホロコースト計画を通してユダヤ人ロマ同性愛者を含む数百万の「不適格」なヨーロッパ人を組織的・大量に殺戮する形となって現れた。そして、絶滅収容所において、殺害に使われた多数の装置や殺害の方法は、安楽死計画においてまず最初に開発されたものであった。ナチス政府の下で、優生学といわゆる「民族科学」のレトリックが強引に推し進められていったのと時を合わせ、ドイツ優生計画に伴うその範囲と強制は、第二次世界大戦後の優生学とナチスドイツの間の、消せない文化的連関を作り出していったのである。

イギリス優生学協会

ゴルトンはイギリスで優生学教育協会1907年に創設した。ゴルトンの死後、1912年には第一回国際優生学会議が開催された[24]

その他ヨーロッパ諸国の優生政策

優生法は、ほとんど全ての非カトリックの西ヨーロッパ諸国によっても採用された。

  • 1933年ドイツにおいて、遺伝的かつ矯正不能のアルコール依存症患者、性犯罪者、精神障害者、そして子孫に遺伝する治療不能の疾病に苦しむ患者に対する強制断種を可能とする法律が立法化された。
  • スウェーデン政府は40年の間に優生計画の一環として6万2千人の「不適格者」に対する強制断種を実行している[25]
  • 同様にカナダオーストラリアノルウェーフィンランドデンマークエストニアスイスアイスランドで政府が知的障害者であると認定した人々に対して強制断種が行われた。カナダスウェーデンにおいては、1970年代に至るまで、他の医療行為と同様に精神障害者に対する強制断種を含む大規模な優生学プログラムが実行され続けた。スイスでは、精神病患者などの強制的な堕胎、不妊手術が1981年まで続いた[26]

日本における優生学

  • 1872年(明治5年)、高杉晋作の義弟である南貞助が海外遊学中に日本人種改良論者になり、やがて英国女性のライザ・ピットマンと「日英混血児を得る」ことを目的に結婚をした事例がある[27]。ライザが日本での生活に馴染めず、人種改良のための結婚生活は失敗に終わったという。
  • 1884年(明治17年)、『時事新報』社説記者の高橋義雄は『日本人種改良論』を出版し、日本人と西洋人の雑婚(国際結婚)により優れた子孫を残し日本人種を改良できると主張した[28]
  • 日本への優生学の影響は20世紀初頭には既に現れた。雑誌『人性』(1905年(明治38年)-1918年(大正7年))に欧米優生学(民族衛生学)の紹介が見られる。
  • 1910年代には、海野幸徳『日本人種改造論』1910年(明治43年)[29][30]澤田順次郎『民種改善 模範夫婦』(1911年(明治44年))[31][30]氏原佐蔵『民族衛生学』(1914年(大正3年))[32]が書かれた。
  • 1916年(大正5年)に保健衛生調査会内務省に設置され、ハンセン病者への隔離を実施し、断種政策とも関連が深い癩予防法の制定へ向けて政府関係者自らが「民族浄化」を叫ぶなどした。
  • 1919年(大正8年)には市川源三を中心に大日本優生会も結成された。
  • 1924年(大正13年)には、後藤龍吉を主幹として雑誌『ユーゼニクツス』(のち『優生学』)が刊行された。
  • 池田林儀1920年(大正9年)から1924年(大正13年)にドイツでワンダーフォーゲルや民族優生学に影響され1926年(大正15年)に日本優生運動協会を設立、雑誌『優生運動』も創刊した。
  • 1930年には、永井潜を中心に日本民族衛生学会が結成された。これまでにない大規模な優生学者の団体である。『民族衛生』を刊行し、形態を変えつつも現在にいたっている。この団体は通俗講演会も積極的に行ったほか、優生結婚相談所の開設や映画『結婚十字街』の製作など注目すべき事業も行っている。またアイヌの調査も有名である。
  • 1938年(昭和13年)戦争に対応するため厚生省が作られ、予防局優生課が『民族優生とは何か』など優生政策をすすめた。
  • 1940年(昭和15年)、人工妊娠中絶条項は国会の反対で大幅に修正されたものの、遺伝性精神病などの断種手術などを定めた国民優生法が公布された。この法による断種手術は1941年(昭和16年)〜1947年(昭和22年)で538件だった。しかし厚生省の意図とは異なり、当時の「産めよ増やせよ」の国策に加えて、天皇を中心とする家族的な国家観が強制断種と馴染まなかったなどの理由から、優生的な政策は必ずしも実効を結ばなかったとされる。

優生保護法

日本において優生学的なイデオロギーが政策的に色濃く反映され、実効されたのはむしろ戦後の1948年(昭和23年)に成立した優生保護法の施行の後である。

日本社会党福田昌子加藤シヅエ太田典礼を中心に1947年「優生保護考案」を第二回国会に上程したが、GHQとの折衝に時間をとられ、国会で十分な審議がなされないまま廃案となった。

優生保護法1948年(昭和23年))は、優生学的見地からの強制断種が強化される原因になったことでも特筆される。元日本医師会会長でもある自由民主党谷口弥三郎参議院議員を中心とした超党派による議員立法で提案された同法は、当時必須とされた日本の人口抑制による民族の逆淘汰を回避することを提案理由として、子孫を残すことが不適切とされる者に対する強制性を増加させたものとなった。

同法は、ハンセン病を新たに断種対象としたほか、1952年(昭和27年)の改正の際、新たに遺伝性疾患以外に、精神病(精神障害)、精神薄弱(知的障害)も断種対象とした。1952年(昭和27年)から1961年(昭和36年)の間にの医師申請の断種手術件数は1万以上行なわれた。またあわせて遺伝性疾患による中絶も年に数千件あった。これを消滅させるべく、1997年(平成9年)に法改正がなされ、名称も母体保護法と変更された。

反対

神道家の曽和義弌は、1940年(昭和15年)に「民モ昔ニ遡レバ神ノ御末デアル、ソレヲ断種スルト伝フコトハ、……徹頭徹尾猶太〔ユダヤ〕思想デアル」と発言して神国思想から反対した(1940年、昭和15年3月13日、衆議院)[33]

その他地域の優生政策

シンガポール

ネガティヴな優生学とは区別して、シンガポールの首相リー・クアンユーは大卒女性の出産を推奨するなどの選別的な教育制度を実践するといった、限定的な「ポジティヴな優生学」を実施した。またシンガポール政府はあらゆる人種の平等を明確にし、明らかに他国とは全く違った優生学的見解を表明した。(リー・クアンユー#家族計画参照)

インド

ヒンドゥー至上主義政党の中で最も過激として知られるシヴ・セーナーが、カースト制度最上位階層の多くを占めると言われるアーリア系について優生学的擁護を訴える政策をしばしば提言し、じわじわと支持を広げている。

第二次大戦後の優生学

ナチス・ドイツの経験の後、「民族衛生」と社会の成員として「不適」に関する多くの概念は政治家や科学界のメンバーによって公には放棄された。ナチ指導者に対するニュルンベルク裁判はナチス政権のジェノサイドの実施を世界に明らかにした。この裁判は結果として医療倫理の方針が制定され、それは1950年ユネスコの『人種主義否定宣言』に結び付いていった。しかし多くの科学者の社会集団は、数年間に渡って類似の「人種的主張」を行い続けた。

第二次世界大戦の間に起こった様々な虐待に応える形で「世界人権宣言」が起草され、1948年国連に採択され「人種・国籍・宗教を問わずあらゆる人々が結婚と家庭を持つ権利を持っている」ことが定められた。優生学は遍く批判の対象となっていった。戦前の優生学者達の多くは、後世において「秘密結社の優生学」と命名された仕事に従事した。戦後彼らは意図的に自分たちの優生学的考えを秘匿し、人類学者生物学者遺伝学者として高名を博すようになっていった。米国のロバート・ヤーキーズやドイツのオトマー・フライヘル・フォン・フェアシューアー、また1950年代結婚相談所を開設したカリフォルニアの優生学者のポール・ポッペナーなどが有名である[34]

優生学に批判的な見方が主流となった後では、教科書や雑誌において優生学に関する記事は掲載されることはなくなった。たとえば『優生学季報』[35]1969年に『社会生物学』[36]と改名された。

現在の優生学的問題

古典的優生学は今日では疑似科学とみなされ、これを積極的に研究する学者も見られない。優生学の事例として、競馬に使われる馬(サラブレッド)や、農業分野で行われる育種学があげられるが、あくまで限られた環境で、限られた遺伝子プールにおける表現型の、限られた情報を見ている結果にすぎず、これを人間の肉体や精神の改良へと飛躍させるのは根拠が薄いと考えられてきた。しかし、2000年代にヒトゲノムが解明された事によって、再び優生学的なヒト遺伝子の選抜が論じられるようになり、新たな優生学が誕生しつつある。例えば、ゲノム情報を用いた遺伝子診断サービスなどが商業化され、自己責任においてそれを利用するなど、個人レベルでの優生思想が、現実問題として現れてきた。今後は、この様な新しい優生学の、倫理問題について考えていく時代となっている。2000年に採択された国連ミレニアム宣言は、こうしたヒトゲノムや生物工学の倫理的配慮を要請し、同年に欧州連合が採択した欧州連合基本権憲章では、人の選別を目的とした優生学的措置を禁止している[37]。また障害者権利条約も、第10条に障害による差別のない生存権[38]、第15条に医学的実験の禁止、第17条に不可侵性の権利を掲げ[39]、障害による優生学的措置を否定している。

出生前診断〜「自発的優生学」

遺伝的な優劣という意味での優生学を、社会制度的に法制化している国はない。しかし現在では、着床前診断、及び出生前診断などにより、出生以前に先天的異常を発見できる技術が構築されている(→出生前診断)。出生前に胎児の障害や病気が確認された場合の選択的堕胎が、優生学的圧力によって行われるのか、あくまで親の自己決定で行われているのか、判断が難しい事例が増加している。優生学的な考え方は、公共の利益を追求した古典的優生学と、個人の権利を追求した自発的優生学という、新しい議論の段階に入ってきており、決して過去のものとなったわけではない。

遺伝子工学・ヒトゲノム

遺伝子工学の発達や精子銀行の登場によって、優生学思想が別の面で復活するのではないかと危険視されている。(→デザイナーベビー参照)

例えば、カール・セーガンは、人類がヌクレオチドを自由に並べ替えられるようになり、望み通りの特質をもった人間を作り出せるようになるだろうが、そのような未来は不安なものだと述べている[40]

ヒトゲノム計画[41]によって、ヒトの全ての塩基配列が明らかになり、重篤な遺伝病を惹き起こす遺伝子以外にも、病気と関連性のある遺伝子が発見された。しかしながら、関連性の詳細が明らかになるにつれ、単一の遺伝子が病気に及ぼす影響は部分的であり、一般的には生活環境等といった後天的要素の影響が、病気の発現に寄与していると判明してきた。また、ヒトゲノム計画によって明らかにされたのは、膨大な遺伝子の組み合わせであり、さらにそれまでは意味のない配列だと思われていたものが、ノンコーディングRNAとして、遺伝子制御に重要な役割を果たしている事が判明するなど、古典的な遺伝子と形質が1対1の対応で遺伝するイメージとは、かけ離れた仕組みになっている事である。

遺伝と学力
教育心理学の研究では、慶應義塾大学文学部人文社会学科人間関係教授の安藤寿康が、約7000組の双子を対象に「遺伝」と「環境」の影響を調査した。この研究では、性格や能力、学力などが遺伝によって、有意な差がある事が分かってきた。同時に、環境による影響も大きい事が明言されており、遺伝はあくまで部分的な寄与であるとしている。