原発による大犯罪は、結局のところその罪を問われることなく、やむを得なかった事故として片づけられ、うやむやのまま、無罪放免という理不尽極まりない答えが当然のごとく出されてしまったのです。そして、権力や権威からもたらされるまことしやかな説明を鵜呑みにしたがる、あるいは、そうすることでおのれの立場に波風を立てまいとする、あまりに姑息な愚民たちは、もはやこれ以上の悲劇は起こらないだろうとか、起きてしまったことをいつまでも嘆いたところで始まらないとか、そんないい加減な希望と諦念にしがみついて、刹那的なきょうとあしたを生きようとしているのです。
そして衝撃によってあいてしまった心の穴を、芝居がかった涙を伴う情緒をさらに刺激して、ある種の情緒的快感を得るための「絆」や「頑張れ」という薄っぺらな言葉で埋めようとし、時の経過の作用によって生々しい記憶が幻のたぐいへと傾いてゆくなかで、遠い昔の歴史の一部として急速に風化してゆくことを密かに歓迎し、国威発揚の場であり、スポンサー企業の宣伝の場であるところのオリンピックゲームがもたらす単純明快な感動に群がり、実際には自分自身と何の関係もない、他人の努力と鍛錬の成果に一喜一憂し、胸にじんとくる一瞬をテレビ画面の奥に求め、束の間の爽快感に浸ることで、未来を生き抜くための力が得られたように錯覚しているようです。
しかし、悲惨で悲劇的な状況はそのままです。改善と向かう気配すらありません。
そして衝撃によってあいてしまった心の穴を、芝居がかった涙を伴う情緒をさらに刺激して、ある種の情緒的快感を得るための「絆」や「頑張れ」という薄っぺらな言葉で埋めようとし、時の経過の作用によって生々しい記憶が幻のたぐいへと傾いてゆくなかで、遠い昔の歴史の一部として急速に風化してゆくことを密かに歓迎し、国威発揚の場であり、スポンサー企業の宣伝の場であるところのオリンピックゲームがもたらす単純明快な感動に群がり、実際には自分自身と何の関係もない、他人の努力と鍛錬の成果に一喜一憂し、胸にじんとくる一瞬をテレビ画面の奥に求め、束の間の爽快感に浸ることで、未来を生き抜くための力が得られたように錯覚しているようです。
しかし、悲惨で悲劇的な状況はそのままです。改善と向かう気配すらありません。