文学の世界と政治の世界には、共通する致命的な欠陥が認められます。それは、携わる人間の資質や素質がいずれもあまりにお粗末過ぎるという点でしょう。その程度のレベルの連中が集まって構成するのは、当然素人同然の世界ということになり、本来堂々と罷り通ったりしてはならないのですが、しかし、実態はそうなのですから、「ああ、そうなのか。ならば、こんな自分でもやってゆけるはずだ」という思いに駆られ、実際には才能を持ち合わせていないにもかかわらず、ごく軽い乗りで政治家や小説家をめざす者が次から次へと現れても不思議はありません。
かくして、絶望的なまでにお粗末な世界と相なり、それが固定化され、伝統になるに及んで、真っ当な天分に恵まれた者が馬鹿にして入ってこなくなり、ために、愚者が愚者を、無能が無能を呼ぶことになり、ますます駄目な集団へと転がり落ちて行き、実りある成果をもたらす未来からはどんどんかけ離れたものになってしまうのです。そしてさらに悪いことには、その世界を取り仕切る実力者と称するボスたちが後継者として認める人物の質は悪化の一途を辿ることになり、しまいには食い詰め者の寄せ集めの世界となって空洞化へと突き進んで行きます。
ところが、その世界をぼんやりした目でしか眺められない一般の人々は、そうした程度の低い連中で構成される世界に慣れてしまい、ハッタリを軸にしたパフォーマンスに長けた者に才能の基準を置き、不平不満を漏らしながらも、心のどこかでかれらを認めるようになってゆくのです。
あげくがこのざまです。
尤も、おそらく他の世界でもこれとまったく同じことが指摘できるのでしょう。