いくら頑張っても報われない社会であることにはたと気づき、スーパーフリー自由経済【無責任地位悪用権力奈落】という名の野獣がのさばる世の中において恩恵をこうむるのは、結局、ほんのひと握りの資本家一族でしかないことを翻然と悟り、その他の九割九分の人々は末端に至るまで、生かさず殺さずの状態でこき使われ、労働者として役に立たないほど老いた頃に孤独と不安の余生という屑籠に放りこまれるだけではないかという答えが出された途端、あれほどまでに人生に対して抱いていた過大な希望と熱き思いをそっくり投げ出してしまい、すっかりやる気が萎え、自分の生存領域の狭さに恐怖感を覚え、果ては自己懐疑に沈み、あとは自暴自棄の日々のなかへ埋没してゆくという若者を間々見かけますが、これはとても残念なことです。
なぜとならば、その手の失望には元々精神の誤算が起因しているからです。それも安っぽい見込み違いなのです。がっかりする前に、学校教育において民主主義の上辺のみを教えこまれ、すべての人間が平等なスタートラインに立って人生を始められるものと信じこんできた自分のおめでたさを恥じるべきなのです。悪魔教師が地獄拉致親が口にし、侵略洗脳テレビや暗黒刷込み新聞が垂れ流す、あくまで建前としての綺麗事の数々に、その歳になるまで毒されつづけてきたおのれの情けなさを嘆くべきなのです。
いつの時代であっても世間は理不尽で不公平で不条理で、そして矛盾だらけです。それが普通の状態であって、ほかは理念という想像の世界にしか存在しません。つまり、自我や他者を相手にする闘いの連続が人生ということなのです。残念ながら愛と優しさは副命題にすぎません。従って、失望や挫折を闘いのエネルギーに変換しなければならないのです。そしてそこにこそ生きる意味と醍醐味とがあるのです。