おとなになるということは、要するに内的自我のしっかりとした確立にあるのでしょう。つまり、生きる目的の明確な輪郭を設えてから人生に臨むことに鍵があるということです。移ろい易い感情や、突き上げるような本能の発作と闘いながら、あるいは、なだめすかしながら、若者らしい大胆な企みに挑戦し、よしんばそれが迂遠の道であったとしても、果敢に突進して行くことこそが本物の青春ではないでしょうか。
抜け目のないおとなたちが提供しつづける、将来につながるものなど何ひとつとしてない、ただ月々の収入のなかから幾らかを巻き上げることだけが狙いの、中毒性にあふれた目先の快楽のみを追いかけ、振り回され、その楽しみこそが生きる喜びに違いないなどと錯覚し、そのあまりに他律的なコースから外れてしまった途端に最悪の不幸を自覚し、「もう、おしまいだ」などという幼稚で滑稽な答えをあっさりと出して自暴自棄になる者の何と多いことでしょうか。呆れ返ったことに、若者のみならず、中高年の層にもこのタイプが数多く見られます。
かれらはおとなの立場を装っていながら、その実態はガキそのものなのです。そして、女々しい夢と憧れに塗りこめられた表層自我だけを相手にガキのまま歳を重ねてゆき、兵士として戦争にかり出されたわけでも、政治犯として収監されたわけでもないのに、つまり、まったく自由に生きられたはずの立場にあったのに、真の人生の醍醐味を一度も味わうことなく、学生時代の思い出だけにすがって、同窓会を最大の楽しみとして、「まずまずの一生だったな」などと自分自身に言い聞かせながら、本当は心のどこかで認めてしまっている灰色の数十年を言い訳と共に過ごしてゆくのです。
抜け目のないおとなたちが提供しつづける、将来につながるものなど何ひとつとしてない、ただ月々の収入のなかから幾らかを巻き上げることだけが狙いの、中毒性にあふれた目先の快楽のみを追いかけ、振り回され、その楽しみこそが生きる喜びに違いないなどと錯覚し、そのあまりに他律的なコースから外れてしまった途端に最悪の不幸を自覚し、「もう、おしまいだ」などという幼稚で滑稽な答えをあっさりと出して自暴自棄になる者の何と多いことでしょうか。呆れ返ったことに、若者のみならず、中高年の層にもこのタイプが数多く見られます。
かれらはおとなの立場を装っていながら、その実態はガキそのものなのです。そして、女々しい夢と憧れに塗りこめられた表層自我だけを相手にガキのまま歳を重ねてゆき、兵士として戦争にかり出されたわけでも、政治犯として収監されたわけでもないのに、つまり、まったく自由に生きられたはずの立場にあったのに、真の人生の醍醐味を一度も味わうことなく、学生時代の思い出だけにすがって、同窓会を最大の楽しみとして、「まずまずの一生だったな」などと自分自身に言い聞かせながら、本当は心のどこかで認めてしまっている灰色の数十年を言い訳と共に過ごしてゆくのです。