侵略が見え見えの理不尽な目的のために他国の軍隊に攻めこまれ、さんざん酷い目に遭わされた側の国民にしてみれば、そう簡単に怨みを忘れられるものではありません。他方、加害者の側はそれが終わった段階で、ちょっとした反省をし、あれは戦争を仕掛けた当事者たちがやった悪行で、自分たちは直接関係ないという答えへと傾き、あっと言う間に忘れてしまうのです。
そして、もっと時が経過すると、あれは遠い過去の出来事であり、しかもけりがつけられた問題であって、そんな昔のことを今更持ち出してぐだぐだ言うのは女々しい限りであり、さもなければ、国内、国外の問題をすり替えたり、国益を有利な方向へ導こうとしたりする作為にほかならないと決めつけ、だから、もうそのことで責め立てられるのはうんざりだとばかりに、居直りに転じるのです。あれは断じて侵略戦争などではなかったと言い、あれは白人たちの植民地政策からアジアを護ってやるための、気高い聖戦であり、むしろ感謝してもらいたいくらいで、現にそう受け止めてくれている国家もあるなどと言い張る始末だ。
そこへもってきて、経済戦争に敗れ、自国の原発に強烈なしっぺ返しを食らった今、惨めな形勢を逆転するには、あの当時の世界に冠たる強国を復活させるしかないという、短絡的にもほどがあり、時代の進歩を無視するにもほどがあり、心にゆとりがないにもほどがある、閉鎖的で、孤立的で、ヒステリックな、それこそ女々しい選択をしようとしています。知性や理性とは対極に位置する、動物的な判断であり、その結果は目に見えています。ひとつ違う点は、犠牲の度合いが今度は桁外れになるということでしょう。