白人の世界における植民地主義の蔓延は、残虐極まりない暴挙とキリスト教の強制によって人間の尊厳を踏みにじるだけ踏みにじり、遅ればせながらの当然にして正義そのものの独立運動の台頭によって、その極悪の道から撤退を余儀なくされたのですが、けれども、敗退を素直に認めれば優越人種としての面子がまるつぶれにされてしまうと思ったのか、それに対する尤もらしい言い訳として、万人の平等なる尺度を持ち出し、罪にまみれた歴史に蓋をしてとぼけようとしたのです。ところが、それしきの綺麗事の倫理観を今さらながら持ち出したところで拭いきれるほどの罪悪ではなく、今さらどうしようもないという既成の事実によって、でかい顔をして、正義面をして他民族の国に居座ったままでいるのですが、七十年前の日本は、かれらの餌食にされる前になんとかしようという切迫感と、もうひとつ、できればかれらのやり口を真似て他国の領土を手に入れてしまおうという欲に背中を押されて、身の程知らずの戦争に突入し、案の定大敗して、多大な犠牲を払う羽目になり、今では他国を乗っ取って大国にのし上がった白人国家の属国に成り果て、揉み手をし、相手の顔色を窺い、へらへらしながら自由経済とやらのおこぼれに与って、民主主義気取りに余念がなく、それでもなお自分がないにも程がある〈無私の民〉という本性にいささかの変化も認められず、心のどこかでは現人神の登場をひそかに期待しているかのような、異常にして異様な、愚劣にして卑劣な本音をちらつかせる不気味さには、ただただ驚かされ、おぞましい恐怖を禁じ得ません。
日本人は一個の独立した人間として、つまり、本当の人間として生きたくないのでしょうか。それとも、そんなふうに生きられない遺伝子を持っているのでしょうか。
日本人は一個の独立した人間として、つまり、本当の人間として生きたくないのでしょうか。それとも、そんなふうに生きられない遺伝子を持っているのでしょうか。