捕鯨に対する世界各国の非難を、食文化の差異や伝統の違いを盾にして斥けようとしても、そもそも情緒に深く根ざした、嫌悪感に限りなく近い、「なんだ、おまえらは犬の肉を食らっているのか」というたぐいに等しい問題であるために、すっきりとした解決に至るまでにはなりません。クジラの命と牛や豚や魚類の命を差別すること自体が間違いなのではないかといくら言い張ったところで、世界から浴びせられる蔑視が和らぐとはとても思えず、それでもゴリ押しをすれば、あの戦争を惹き起こした当時の異様にして異常な国家体制と結びつけられて、野蛮な人種としての棚の片隅に押しやられてしまう可能性が大で、今は食糧不足の時代ではなく、飽食の時代にあるのだから、捕鯨の断念を世界に発信しなければ、かなりひどい評価が定着し、人間を食っているわけではないのだから文句あるかの理屈だけでは通用しなくなり、本気で国際社会の一員になろうとしているのだとすれば、ほかに道はないでしょう。ついでに、原発も放棄し、戦勝国から押しつけられたとはいえ、まさに人類が本気でめざすべき、人間が本当の人間になるための、平和憲法を骨の髄まで浸透させるという強い心組みを示すならば、初めてそこで、核保有国としての軍事大国が抱えるあらゆる非人道的な欠点を堂々とあげつらうことが可能になるのです。
ちなみに、潮を吹きながら大海原をよぎって行くあの巨大な生き物をマンモスタンカーから幾度も眺めたものですが、そのたびに、尊厳にあふれた偉大な生き物という、罪だらけの人間なんぞをはるかに凌駕した、慈愛に満ちた高等生物という感動的な印象を素直に受けました。そして、クジラを殺しつづけている限り、文化にしても伝統にしても、極めて低い次元にとどまりつづけるに違いないと、理屈抜きで、そう確信したものです。