文学が音楽や美術と大きく異なる点は、感性のみを試される芸術ではなく、併せて知性をも大きく試されることなのですが、しかし、残念ながら、昨今の文学は、知性の尺度を蔑ろにし、安っぽい感性のみを、つまり、幼稚なナルシシズムと不気味なマゾヒズムのみを全面に押し出した、知性のかけらも見あたらない、現実逃避型の世界の構築に明け暮れて、もはやその鉱脈は掘り尽くされているにもかかわらず、依然としてその段階に嬉々としてとどまり、それこそが文学の真髄だと言わんばかりに、劣等意識の反動としての夢と憧れを、反知性的な、せいぜいペダンティックな範疇にしかとどまらない教養で味付けをした、ちゃんとした人間が読んだら気恥しさを覚えてしまうような作品が、堂々と罷り通っているのです。とはいえ、これは何も日本だけに限ったことではなく、世界中の文学ファンの大半が同じ価値観を持ち、文学とはそういうものだという固定観念がはびこり、ために、もっと高度な、もっとレベルの高い、真に芸術と呼べるような作品にめぐり合いたいと本気で願っている人々がますます背を向ける原因にもなっているのです。
しかし、本当の文学とはそんな安っぽいものではありません。そんなちゃちなものではありません。そのほうが大受けして本が大量に売れ、大勢の読者がいい気持ちになり、出版社と執筆者が儲かるのだから、それ以上のことなど考える必要もあるまいという反論にも確かに一理はあるのですが、あくまで一理であって、その一理が幅をきかせ過ぎたせいで、崇高な芸術ジャンルが、ますますお粗末な方向へと傾いてしまい、今ではその方向性こそが文学の進む唯一無二の道だと思いこまれているほどの体たらくなのです。
でも逆に言えば、文学の可能性はまだ無限ということにもなるでしょう。
しかし、本当の文学とはそんな安っぽいものではありません。そんなちゃちなものではありません。そのほうが大受けして本が大量に売れ、大勢の読者がいい気持ちになり、出版社と執筆者が儲かるのだから、それ以上のことなど考える必要もあるまいという反論にも確かに一理はあるのですが、あくまで一理であって、その一理が幅をきかせ過ぎたせいで、崇高な芸術ジャンルが、ますますお粗末な方向へと傾いてしまい、今ではその方向性こそが文学の進む唯一無二の道だと思いこまれているほどの体たらくなのです。
でも逆に言えば、文学の可能性はまだ無限ということにもなるでしょう。