文化なるものに勲章を授けようとする国家権力の意図はあまりにも露骨で、それを大げさに見せつけられるこっちのほうが恥ずかしくなるほどで、国民が携わるすべてにおいて為政者が支配したいという、つまり、自分たちのほうがおまえたちより上に属する人種であることを暗にほのめかし、早い話が、「おれたちほうが偉いんだということを忘れるんじゃないぞ」と言っているわけですから、文化の精神の核になるものが自由であり、その自由の核をなすものが個人の自由である限り、そんなものを嬉々として受け取る輩は、もうそれだけで似非文化人であることを自ら証明しており、かれらの功績の上辺がどれほどそれらしく見えようとも、その精神の中核は俗臭にまみれ、芯はすでにして腐っていることになります。しかし、責任を取りたくない一心から、同臭に足を引っ張られたくない臆病から、生涯にわたって自分というものを持とうとしない、卑劣にして愚劣な国民の大半が、そのお墨付きを異常にありがたがり、絶対的な価値として無邪気に受けとめるものだから、叙勲者の心に動揺が走ることなど絶対になく、まして、おのれを疑いの眼差しで見つめる一瞬もなく、文化人としての大成功を確信しながら、理不尽にして不条理な存在を大っぴらに容認する反文化的な行為に走り、大満足の体でおのれの人生を回顧するのです。
しかしまあ、この国に限ったことではなく、世界中がだいたいそんなもので、だから、個人の魂に直接訴えて、震えがくるような感動をもたらすほどの文化の域にまで達することがなく、それらしい作品がそれらしい印象を与えながら、それらしい世界を整えているばかりで、これぞ本物と断言できる文化が生まれず、似非文化を本物の文化と勘違いして、ということは、人間らしい人間であることが何かを知らずじまいでこの世を去るのです。