あの国家的な〈原発犯罪〉の後始末は、関係者たちがさかんに口にする希望的観測を
次々に裏切るようなアクシデントに見舞われつづけ、完全に封じこめるための目処さえも
つかず、それでもなお、苦肉の策というか、その場しのぎの思いつきというか、
当人たちですら疑念を感じないではいられないほどのずさんな計画を打ち出し、
「なんとかする」とか、「なんとかしなければならない」とかの半分逃げ腰の言い草を
臆面もなく披露しながら、この狭い国の未来を真っ暗にする方向で、十年後にはどこかの
誰かが自分たちに成り代わってどうにかしてくれるだろうという程度の無責任な思いで、
それを単なる職業として受けとめ、日々を送っているのですが、しかし、おそらく、
そうしたかれらの怠慢な付けはいずれ深刻極まりなく現実となってのしかかってくることでしょう。
しかも、ひとたび思い通りにならなくなると、ダムの決壊どころの騒ぎではない大悲劇を
しかも、ひとたび思い通りにならなくなると、ダムの決壊どころの騒ぎではない大悲劇を
もたらす原発を廃止する方向へ前進するどころか、今度からはしっかりと注意して
かかるから大丈夫という、子ども騙しもいいところの屁理屈を振り回して、性懲りもなく
再開の道を辿ろうという、このあまりと言えばあまりな無神経さと前後の見境もない
強欲さはいったいどこからくるのでしょうか。原発がなければ電気が作れない、
電気が作れなければ経済が破綻する、経済が破綻すれば国家が疲弊し、国家が
疲弊すれば国民が食うや食わずの状態に陥るという、この単純な論理に騙されては
なりません。原発を廃止して一番困るのは、影に日向に国家を実質的に統治する、
特定少数の特権者であって、実際には被統治者の国民ではないのです。なぜとならば、
経済大国から外れたところで、我々が失うものは無に等しいのですから。というより、
失うものを最初から持ち合わせていないのです。