サンディエゴ USA 05
「アメリカでこんなにおいしい天ぷらそばが食べられるなんて思ってもいませんでした。この味なら、日本で店を開けますよ。テニスを引退したら日本でそば屋を開けばいい。相談に乗りますよ。おっと、今日は、まだ引退の話に来たんじゃありません。」
鈴村が作った天ぷらそばは正真正銘うまかった。そばは乾麺を湯がいたものだが、でかい鍋を使って、たっぷりのミネラルウオーターを使う。そばは、水が命だ。その水を市販のボトルから使うのだ。本当にすぐにでも東京でそば屋を開ける。食事が終わるとドリップしたレギュラーコーヒーをいれてくれた。これもまたうまい。喫茶店も開けるようだ。
「遠いところをわざわざご足労いただいてありがとうございました。」
鈴村は神妙にあいさつした。
「とんでもない。こちらこそ、突然手紙を送って、押しかけて来てしまいました。お礼を云うのはこちらのほうです。」
「電話でも言いましたけど、いただいたお手紙を3回読みました。何か、情熱みたいなものはすごく伝わってくるんですけど、いったい山上さんが僕に何をして欲しいのかが今ひとつよくわからないんです。」
「実は、もちろん手紙に書いたことは私の本心ですが、鈴村さんに私の気持ちをどのように伝えるのがいいのかを考えました。最初から、鈴村さんを訪ねてお話した方がいいのか、アカデミーを通して話した方がいいのかとか、いろいろ考えたのです。菊山さんにも、あなたがABCに居た時のジュニアのコーチの先坂さんにも相談しました。それで結局は、まず私の気持ちを手紙に書いて読んでもらうことにしました。あの手紙を書くのに、一週間もかかったんです。」
「それで、徹をウインブルドンにどうやって出すおつもりですか。徹もウインブルドンの出場をめざして今でもやってる訳だし。」
賀川恭子が話しに割り込んできた。
「私が確認したいことは、今でも本気で鈴村さんはウインブルドンを目指していらっしゃるのか、ということなんです。」
山上竜彦は少し座っている椅子から腰を前に出して鈴村の顔を真っ直ぐに見つめた。
「もちろん、テニスを始めてこれまでもそして今でもウインブルドンを目指しています。ただ、壁が厚いのは確かです。今年も結局は予選にもいけませんでした。来週からはUSOpenの出場をめざしてサテライト・サーキットを廻る予定にしてます。」
「ウインブルドンを目指しているのなら、そして本気で頂点を目指しているのなら、ここからは私に任せてもらえないでしょうか。私が必ずあなたをウインブルドンのセンターコートに送り込みます。そして、恭子さん、それにはあなたの力も必要なんです。」
センターコート ウインブルドン 06
第11ゲームのフェレラーのサーブを鈴村がブレイクしてゲームカウントは6-5で鈴村がリードした。次のサービスをキープすれば2セット目も鈴村が取ることができる。そして、一分間の休みが終わってクルトウリさんの「タイム」の声がセンターコートに木霊した時、空からはやや大粒の雨が降り始めた。クルトウリさんは、今年から新しくレフリーになったバート・シュナイダーさんからの指示を待った。
「サスペンディド」
ゲームの中断が決まった。即座にコートにカバーが掛けられる。選手は控え室に戻って次の指示を待つことになる。
この中断でほっとしたのは、フェレラーだけではなかった。鈴村もほっとしたのだ。2人ともまだ肉体的な疲れは感じていない。しかしフェレラーは、今までのウインブルドンで感じたことのない居心地の悪さを感じていた。それがどこからくるものなのかはわからない。鈴村もここにきてウインブルドンの持つ重厚さに押しつぶされそうな自分を感じていた。一回戦からおとといの準決勝まで全く感じなかったこの重圧は、決勝だからなのだろうか。鈴村にはわからなかった。
ウインブルドン センターコートの中にある選手の控え室は各選手が試合前、または今回のように雨天中断で使うようになっている。個室だが中はスペーシーでトイレとシャワーもついている。そしてテレビ中継が映るモニターも用意されている。BBCの放送だから、中断中のコメンテイターの話も聞ける。
鈴村が部屋に入るとほぼ同時に、コーチのダニー、トレーナーのイアン、恭子、兄の和也とその嫁の美佐子も入ってきた。和也が
「いっしょについてきちゃったけど、いいのかい?」
と、所在無さげに徹に聞いた。
「ファミリーは、特別なんだよ、この国では。姉さん、気楽にしてよ。ただ写真は撮っちゃだめらしいけど。」
「あら、残念ね。こんなところに入れた日本人なんてそういやしないんだから、写真でもあれば自慢できるのに。」
鈴村徹はまず着替えることにした。シャワーは浴びない。疲れが増すからである。身体はそれほど疲れていない。もちろん実際は疲労のピークにある。鈴村は予選で3試合、本選に入って6試合、ここ3週間ですでに9試合、セット数にして30セットを消化している。それでもサテライト・サーキットを考えれば、試合以外で疲れることはない。
今回のウインブルドンは今までから考えたら王様のような生活だ。ロンドンに入ったのは、最終予選が行われる一週間前。オフィース ヤマガミが全てアレンジしてくれた。コートまで十分の距離に家を借りてくれた。近くには杉山さんのチームもいた。今やテニスはチームである。鈴村ひとりがいくらがんばって技術を磨いてもウインブルドンに出場するぐらいはできるかもしれないが、そこから勝ち進んで決勝戦に出るなどということは絶対に無理だ。特に言葉と文化が異なる場所に2週間も滞在しなければならないとなると、日本人は勝負の前に精神的に参ってしまう。今回のチームは鈴村徹、賀川恭子、コーチのダニー・ロークとその奥さん、フィジカル・トレーナーのイアン・グリーンとその奥さんがチームメンバーである。賀川恭子はメンタルトレイナー兼マネージャーとして参加している。この6人でひとつ屋根で生活するのは今回始めてだが、皆それぞれ、こういう生活に慣れていた。目的はひとつである。鈴村をウインブルドンで優勝させること。
イアン・グリーンが身体に違和感がないかと尋ねた。足首に巻いているテーピングを巻き直して欲しいと頼んだ。着替えを済ませて、両足首のテーピングをし直してもらう。ダニーが一言「グッド・ジョブ」と目でウインクしながら鈴村の隣に腰を降ろした。ダニーはそれほど多くを語らない。そして決して命令もしない。鈴村が欲しい言葉だけを口にする。以心伝心。全てが信頼関係で成り立っている。ダニーは最後にこう云った。
「徹、これからが忍耐だ。もうすでに感じていると思うが、流れが徹から去りつつある。よくここまで保(も)たせたものだ。一度ニュートラルな状態になって、たぶん次にフェレラーがその流れを引き込むだろう。ニュートラルな状態の時はいつものようにボールに集中する。本能で動くのだ。もし流れがフェレラーに移った時はありとあらゆる方法で試してみるといい。フェレラーからその流れを離れさせるのだ。あせることはない。どっちみちフルセットだ。あせった方が負けだ。徹はフルセットでどれだけ続いてもやり遂げるだけの体力も気力もあるから。」
雨は20分で止んだ。レフリーのバート・シュナイダーさんから20分後に試合再開の指示が出た。鈴村はゆっくり目を瞑(つむ)った。山上が始めてサンディエゴに来た時のことを思い出していた。
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