USTAナショナル・テニスセンター NYC 06

 賀川恭子は観客席から鈴村徹が準決勝でローデンと戦っているのを見ている。ここは、テニスの全米オープンが行われているニューヨーク・クイーンズ地区にあるUSTAナショナル・テニス・センターである。ウインブルドンの予選から出場して本選で優勝した鈴村徹は一躍テニス界のヒーローになった。鈴村徹のマネージャー兼メンタル・トレーナー兼恋人である賀川恭子も鈴村といっしょに頻繁にマスコミに登場するようになった。ただ、住んでいる所がアメリカのサンディエゴということで、日本のマスコミの数は始めのうちは少なくて済んだ。鈴村が優勝すればどうなるかを完璧に予想していたのは山上竜彦である。山上が仕掛けたのだからその結果によって起こる事態を予測できなければエージェントなど失格である。


 ウインブルドンが終わってから全米オープンまでには、約2ヶ月のインターバルがある。グランドスラムと呼ばれる4大大会、全豪、全仏、全英、全米は、男女いっしょの大会で、2週間掛けて行われる。グランドスラム以外はそのほとんどの大会が男女別々の大会となる。それは、男子だとATP(プロテニス協会)が統括団体だし、女子はWTA(女子テニス協会)がその統括団体という風に、統括団体が別れているからだ。ATPが主催する大会は全世界で行われている。グランドスラム大会に出られる人数などほんの一握りのトッププレイヤーでしかない。そしてそのトッププレイヤーの一角を鈴村徹は占めることができた。賀川恭子は、鈴村徹しか男を知らない。たくさん恋などしなかった。中学、高校、そしてアメリカに来てからもテニスが恋人だった。鈴村徹もそれは全く同じだ。ふたりともテニスをやっていることが楽しかったのだ。そんなふたりがいっしょになることは、もう生まれた時から決まっていたのかもしれない。赤い糸の伝説があるとすれば、ふたりの足の親指には、お互いを結ぶ赤い糸が繋がっている。


 賀川恭子と鈴村徹はウインブルドンが終わった翌日にはロンドンからサンディエゴに戻った。コーチのダニーとメアリーはフロリダへ、フィジカルトレーナーのイアンとリタはニューヨークへ帰っていった。これから先のことは何も決めなかった。これまで、ウインブルドンだけをめざしてきた。ウインブルドンで勝っても負けてもその先のことなど考えていなかった。山上竜彦との契約もウインブルドンまでである。今は何も考えられない。賀川恭子も鈴村徹もサンディエゴの自宅に帰って、鈴村が作る「蕎麦」を食べたかった。


 結局、賀川恭子と鈴村徹は一度日本に帰ることにした。山上は何の制約もつけなかったが、恭子も鈴村も山上を心底信頼していた。山上以外にマネージメントを頼むつもりなどさらさらなかった。そして今回も山上は自分がサンディエゴに行くと言い出したが、二人は日本で話したいと主張した。やっぱり日本に帰りたかったのである。山上の心配はマスコミ対策である。日本に来てもらうことは、スポンサー契約には都合がいい。しかし、やっと生まれた日本人のテニスのヒーローをマスコミは放っておいてはくれない。


 賀川恭子は、鈴村の勝利を確信した。鈴村がウインブルドンの一回戦で第二シードのローデンに勝ったところから鈴村の快進撃が始まった。今回の全米オープンでは、ローデンは何が何でもの勝ちにきている。しかしローデンが何度やってもフェレラーに勝てなかったように、鈴村にも勝てない。賀川恭子は「今」に集中する鈴村のプレイを安心して見ていられた。安心した気持ちがウインブルドンの後帰った日本にワープした。思わぬ相手との出会いだった。


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 バンウイック・エクスプレスウエイ クイーンズ NY06


「すごい車借りたわね。」

 右側の助手席に座る生方恵子が地図を片手に山上竜彦に話し掛けた。

 「アメリカっていうところは命をお金で買うところだ。金をけちって小さい車で死にたくはない。恵子と始めての海外旅行なのに遺骨で日本に帰るのはやり切れんだろう。」

 山上が借りた車はシボレーのトレイル・ブレイザーというSUVの車だった。別に山道を走るわけではない。荷物が多いわけでもない。セダンで十分じゃない。生方恵子はそう思った。

 「あなた、アメリカのドライバーズ・ライセンス持ってるんだ。」
 「アメリカに居た時に取った奴を5年毎に書き換えている。でももうそろそろ厳しくなって、もう書き換えはできないな。グリーンカードが失効しちゃってるから。」

 山上と恵子は今日、成田からJFK国際空港に着いて全米オープン(USOpen)が行われている、USTAナショナル・テニスセンターに向かっている。今日は、午前中に男子シングルスの準決勝、鈴村vsローデンの試合が行われた。午後にはフェレラーvsへ-リック戦が行われる。今ごろは、もう結果が出ているかもしれない。結局、鈴村もフェレラーも共に勝って、決勝戦はウインブルドンと同じ顔合わせになった。

 「今回は急遽、TBSが決勝の放送を決めたようだ。でも鈴村が決勝まで来なかったら放送しなかったかもしれない。WOWOWの加入者がものすごく増えたらしい。この後のAIGに出てくれってうるさいんだけど、どうするかなあ。まあ、これも鈴村次第だ。」
「テニス協会を通じても来てるのよ。それに菊山さんからも。ここは協会に貸しを作っておいたら。」

 菊山とは、菊山幸雄のことで、鈴村徹がジュニア時代に通っていたABCテニススクールの校長である。菊山が鈴村の存在を山上に教えたことから鈴村徹のウインブルドン優勝に繋がったのである。それは、飲み屋での話から始まった。たまに、菊山が夕方代官山にある山上のオフィースを訪ねてくる。それが、2年前のウインブルドンの頃だった。酒の酔いも廻って、山上は日本人男子のふがいなさを愚痴っていた。「日本にもフェレラーみたいな人間が現れればいいのに。」と口にした時、菊山は、「昔、今のフェレラーにそっくりな奴が、うちのスクールにいたな。」と発言したのだ。その一言からウインブルドンで日本人男子を優勝させるプロジェクトはスタートした。

 「テニス協会への貸しならもう数え切れないほどある。俺が決めることじゃない。鈴村が決めればいい。」
 「鈴村君はあなたが出ろって云えば、絶対出るわよ。」
「そんなことはわかってる。俺は鈴村にウインブルドンで勝たせたかっただけだ。そこからは、鈴村のオプションだ。」
 「鈴村君はウインブルドンで優勝した。そして山上竜彦をエージェントに選んだ。だから、やっぱりあなたが決めるべきよ。」

 ジョン・F・ケネディー国際空港からUSTAナショナル・テニスセンターまでは、バンウイック・エクスプレスウエイを北上する。ニューヨーク・メッツの本拠地シェイ・スタジアムのまさに隣にあるのが、フラッシング・メドウ・コロナ・パークにあるUSTAナショナル・テニスセンターである。


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センターコート ウインブルドン 06


セットカウント2-2、ファイナルセット、ゲームカウント8-8。ウインブルドンのファイナルセットにタイ・ブレイクはない。どちらかが2ゲームの差を付けるまで続く。鈴村徹とフェレラーの試合はいつ果てることなく続いていた。センターコートの観衆もそしてテレビで見ている全世界の視聴者も誰もがどちらが勝つかを予想できないでいた。どちらかが、ギブアップ宣言をしない限りは続くのかと思われた。ウインブルドンにはナイターの設備がない。日没順延?ウインブルドン史上初めての決勝戦日没順延かと思われた時、ゲームは動いた。


フェレラーのサービス・ゲーム。一羽の鳩がセンターコートを駆け抜けて正面スタンドに舞い降りた。ご婦人の悲鳴が聞こえる。サービスの体勢に入る直前のフェレラーの動きが止まった。ご婦人の悲鳴がセンターコートを包んでいた緊張感に綻びを入れた。フェレラーも鈴村も何事が起きたのかまったくわからなかった。鈴村は正面スタンドを見る位置にいたので、舞い降りた鳩がご婦人の悲鳴に驚いて高く飛立つのが見えた。しかしフェレラーにはどよめきが静まりつつある中でも状況を把握できなかった。一呼吸置いて、チェア・アンパイアーのピエトロ・クルトウリさんの「クワイエット・プリーズ」の声が響いた。


フェレラーは、これまでと全く同じスタンスと儀式のような左手で3回ボールを地面にバウンドさせる動きからトスを前方に投げ出した。しかし今までと違っていたのは、トスしたボールを物理的には目で追っているのだが、心の目がゲームに戻ってきていないことだった。鞭のようにしなったラケットが鈴村の居るコートのセンター目掛けて打ち抜かれた。そしてフェレラーの目に映ったのは鈴村がセンター方向にバックハンドのブロックの体勢を作りながらステップインしてくる姿だった。鈴村にやまを掛けられたのか。フェレラーの左脳が回転を始めた。これは、集中力の限界を示していた。ここまで、フェレラーにも鈴村にも流れがいかないニュートラルな状態でゲームが続いている。お互いが本能のままに、右脳だけで動いている間はどちらも隙を与えない。安定したサーブとショットの精度が互角なら、どちらもサービスを落とすことはない。


鈴村がセンター寄りにステップインしたのは、全く自然な動きだった。ボールに集中すれば自然に予測をして自然に反応して体が動く。フェレラーの切れのいいフラットサーブをバックハンドでブロックしてスライス気味にセンターに返した。このシチュエーションはこれまでに何度もあった。球が少し浮いてくればミドルボレーで打ち返す。低く返ってきてもハーフボレーでサイドスピンをかけてエンドライン一杯に落とせばいい。今までのフェレラーなら慌てることはなかった。しかし、フェレラーはサーブからスプリットステップしても、前に出なかったのである。出られなかったといったほうがいい。サーブのスピードがあればあるほど、リターンも速く返ってくる。前に出るタイミングは一瞬の判断で行われなければならない。左脳で考えてできる動きではないのだ。


鈴村のリターンは、ステップインしてブロックしたので、その分リターンのスピードも上がった。フェレラーはコートの中でもっとも居てはならない位置で鈴村からのボールに対処しなければならなかった。フェレラーがこんな位置からショットを放つのはこの試合の中でも、いやウインブルドンに入ってからも初めてだったに違いない。魂の抜けたボールは、鈴村のコートに返されたがもう鈴村でなくても誰が打ってもポイントできるチャンスボールだった。


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山上さんから僕をフェレラーとウインブルドンで戦わせるという手紙には驚いた。ちょうど夢を見ることができなくなっていた時期だった。夢を見ることができれば、それは必ず実現する。僕もそうだったけれど、あの時はウインブルドンに行く、出場するという夢すら見れなかった。夢を設定できなかったのだ。ただ毎日テニスをやっていた。何も考えようとしなかった。サンパスという目標を失ってしまったのだ。スポーツ選手で一生現役などということはない。テニスの世界では、10年もトップランキングにいるなどというのは本当に一握りなのだ。そのサンパスも30を越えてきて引き時を考えていたに違いない。2002年のUSOpenの優勝を最後にサンパスは引退を決めた。そして男子のテニス界はフェレラーの時代に入った。


山上さんは僕に夢を与えてくれた。目標を失っていた僕を引き上げてくれた。そして僕はウインブルドンでフェレラーに勝った。フェレラーの四連覇を阻んだのは僕だった。そして僕の生活は変わった。僕はヒーローになった。僕はこれを夢見ていたのだろうか。違うような気がする。山上さんがサンディエゴに会いに来てそれから予選を突破してウインブルドン本選に出場するまでの一年間。僕はとても楽しかった。恭子も僕のメンタル・トレイナーになってくれた。ダニーは、本当に信頼できるコーチだ。みんなが僕をウインブルドンで勝たせてくれた。だけど、僕の夢はウインブルドンで勝つことじゃない。


来週からUSOpenが始まる。もう僕はフェレラーのそっくりさんじゃない。もちろん予選もいらない。シードも付くに違いない。何故か平静でいられる僕がいる。それは、まだ夢を見つけていないからだと思う。ひょっとしたら一生見つからないのかもしれない。だけど僕は今生きている。


ジョン・F・ケネディー国際空港 NYC 06


成田空港を午後5時に定刻どおり出発したユナイテッド航空801便は、目的地ニューヨークのJFK国際空港に定刻より30分早い午後4時30分に到着した。日付は日本を出発した日に戻っている。日にちだけを考えれば飛行機に乗っていた12時間はカウントされない。この時間をいっきに取り戻すのが、日本に戻る時である。昼過ぎに乗ったのに、日本に到着するのは、翌日の夕方になる。しかし今回はニューヨークからロンドンに廻る。地球の回転に逆らう旅だ。


JFKに降り立つのは何年ぶりだろうか。いや何十年ぶりの事だ。始めてアメリカの大地を踏みしめたのは1981年、シカゴのオヘア空港だった。始めて飲んだペプシコーラの味を今でも覚えている。駐在員として赴任したのはニュージャージーだったから、空港はもっぱらニューワーク空港だった。ニューヨーク、ニュージャージー地区には3つの国際空港がある。その中でも一番大きいのがこのジョン・F・ケネディー国際空港である。マンハッタンからは南西に40-50分といったところか。今回始めて、JFK空港でレンタカーをすることにした。今までJFK空港でレンタカーをしたことがない。マンハッタンで仕事をするなら、車など必要ない。タクシーと地下鉄で十分に用は足りる。しかし今回用事があるのは、マンハッタンではない。USOpenを見に来たのである。見に来たというより、これはやっぱり応援だろうか。いや、クライアントのサポートだ。


ウインブルドン男子シングルスで予選を勝ち抜いて初出場した鈴村徹は、初戦で大会第2シードのローデンをストレートで下した。あれよあれよと勝ち進んで現在破竹のウインブルドン27連勝中のフェレラーと決勝戦で合間見えた。鈴村もフェレラーも同じような体格で、同じようなプレイスタイルである。「無敵の王者」と芝のコートで五分の試合をする選手が突然現れたのである。それも日本人が。その仕掛け人が山上竜彦、フリーのスポーツ・エイジェントである。


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高校時代の部活は楽しかった。中学時代の部活ももちろん楽しかった。でも高校時代はテニス三昧の日々だった。スクールにも引き続き通っていた。兄が進学したT大の野球部に入って、六大学野球の対抗戦でK大に完封勝ちしたと新聞に大きく載った。兄貴のヒーロー人生はどこまでも続いていた。この頃になると、兄貴が世間でどんなに注目されてもあまり影響されなくなってきた。家でもほとんど会話らしい会話をしなかった。高校の時もそうだったけれど、兄は合宿所生活が長くて、あまり家にはいなかったようなのだ。僕も、家はご飯を食べて寝るだけだから、この頃も「夢」らしい夢を持ち合わせていなかったかもしれない。「今」が充実していたのだ。夢を見る必要がなかった。


夢をあこがれというなら、それは僕にとってサンパスかもしれない。サンパスのプレイは、何度見ても飽きない。暇さえあればサンパスの試合をビデオで見ていた。もちろんサンパスのサーブもネットダッシュもパッシングショットも格好いいのだけれど、攻め込んでのミスショットさえも格好よく見えた。サンパスがやることなら何でも格好よかったのだ。だから、僕はサンパスの真似をした。サンパスになりきろうとした。サンパスのようなプレイができればウインブルドンにもUSOpenにも出られるような気がした。ウインブルドンに出たいのではなくて、サンパスになりたかったのだ。サンパスになればウインブルドンに必然的に出られる。


サンパスがプロデビューしたのは、1988年17歳の時である。そしてUSOpenで優勝したのが1990年、グランドスラム大会の初勝利である。僕が中学三年の年、ウインブルドンでの四連覇がかかったこの年サンパスは第1シードでありながらノーシードのクライチェクに準々決勝で負けてしまった。しかしウインブルドンの後に行われたUSOpenでは、全盛期のマイケル・チャンを破ってUSOpen三勝目をあげる。僕が高校でサッカーではなくてテニスをやろうと決めたのは、サンパスを夢見たためだと思う。あの時のサンパスは強いというより格好がよかった。これは今でも変わっていないけれど、サンパスのプレイスタイルに憧れていたのだ。サンパスのようなテニスがしたいと強烈に思ったのは、あの1996年のUSOpenだったかもしれない。サンパスは翌年から2000年までウインブルドンで4連覇を遂げる。そして、ウインブルドン5連覇の夢を砕いたのはその時まだ19歳のフェレラーだった。この試合もよく覚えている。僕もフェレラーと同じ19歳で、サンディエゴのテニスアカデミーに来て2年目だった。実は僕はフェレラーをプロ入りする時から知っていたのだ。フェレラーもプロ入りしたのは、サンパスと同じ17歳の時だったと思う。僕が名ばかりだけどプロになったのは、18歳になってから、サンディエゴに来ての夏からだ。フェレラーは、決してうまいプレイヤーではなかった。少なくともデビューしたての頃は、荒削りで、すぐに感情を表に出すタイプの、それでいて繊細さを持ち合わせたちょっと変わったテニスプレイヤーだった。ただ、一つだけ僕との共通点があった。フェレラーもまた、サンパスに憧れてテニスをやっている。サンパスになろうとしている。


2001年のウインブルドンでのフェレラーは2年前のフェレラーではなかった。でもサンパスが負けるとは誰も思わなかった。しかしファイナルセットの末、フェレラーはサンパスに勝った。サンパスが1990年に始めてグランドスラムのタイトルを取ってから11年も経っていた。正直、僕はフェレラーが羨ましかった。サンパスに勝つということは次の時代のパスポートを手にしたようなものだ。サンパスはフェレラーに次の時代を託したのだ。僕はそう思った。


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プロローグ

僕の夢は何だったんだろう。ウインブルドンに出るまではウインブルドンだったんだろうか。夢ってその時その時で変わっていくように思う。小学生の頃、そうテニスを始めたばかりの時期はそれほどテニスが好きじゃなかった。両親がテニスをしたいから、僕をスクールに預けたんだ。普通の親は子供のプレイを見ているものだ。いっしょにスクールでテニスをしていた子供のほとんどの親は自分の子供のプレイに一喜一憂していた。ところがうちの両親は僕をスクールに預けるとさっさといなくなってしまった。僕の通っていたスクールは、会員制のテニスクラブが運営しているところだから、パパもママも近くのコートでテニスをしたいがために僕をスクールに入れた。僕がテニスが好きだとか嫌いだとかはどうでもいいことだったのだ。だから、僕のプレイなどに興味は全くなかった。その当時はそんな事情を知る由もない。テレビを見ていても漫画の本を読んでいてもテレビゲームをしていても、何故かある時間になると僕はお着替えをさせられてこのテニスコートに連れてこられた。


その頃僕には夢なんかあったんだろうか。塾は4年生から行きだした。三つ年上の兄がT学園高校付属の中学に進学した。兄は小学生の時地元リトルリーグのエースで4番だった。僕がテニスを始めた頃の兄貴は小学校ではヒーローだった。決してヒーローの弟が嫌なわけではなかった。でもヒーローの弟は決してヒーローにはなれないのではないかと漠然と思っていた。今から思えば僕は小学校三年生でヒーローになることを諦めてしまったのかもしれない。そして本当は兄貴とは違うヒーローになりたかったのかもしれない。

僕は中学に入ってサッカーを始めた。始めたというより誘われてやったサッカーがおもしろかったのだ。中学に入る頃から背が急に伸びてきてそれと同時に自分の体が自分の思うように動かすことができるようになった。中学ではサッカー部に入ったけれど、テニスもスクールで続けていた。その頃はテニスもサッカーもやること自体が楽しかった。結構きつい練習だったけど、練習の成果がすぐに出るというのはこの上なく楽しい。その頃は夢を見る暇などなかった。だって、「今」が楽しいのだから。そしてその「今」は必ず明日に繋がっていると信じていた。


高校も公立に進んだ。兄はT学園高校から同じ年にT大学の文Ⅰに現役で合格した。兄は高校三年の夏の甲子園に県の代表として出場した。そこでもエースピッチャーだった。二回戦で負けてしまったけれど、それでも兄貴はヒーローで在り続けた。僕も高校進学の時、いくつかの私立校からサッカーの特待生で入らないかと誘われた。僕は誰にも相談しないで、断った。身長は180cmを超えていたけれど、僕ぐらいのセンスのサッカー選手は試合にいけばたくさんいた。もちろんサッカーが嫌いになったわけではなかった。これも漠然としてだけれど、サッカーでは僕はヒーローにはなれないと感じたのかもしれない。


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スポーツバー 六本木 06


放送が始まって2時間半経っていた。時計の針はもう翌日を指している。スポーツバーの中は、そんな真夜中であることを忘れたかのようにパーティーは続いている。テニスもサッカー同様観て、興奮できるスポーツだったのだ。それもサッカー同様大会とプレイヤー次第だが。


「恵子、俺は結局、一度もロンドンに行かなかった。ミュンヘンには昔何度も行ったから、その乗り継ぎでヒースローには数回降りたけど、ロンドンの街には行ってない。」
「私は、海外で生活したのがロンドンしかないから他の国と比較できないけど、完全な階級社会よね。これは生活してみないとわからない。やっぱり王国なのよ。今は女王様の国だけど。」
「俺はアメリカしか知らない。アメリカ人がどうしてあんなに個人主義を貫けるのかが最初わからなかった。そして、自由に対してあれほど強い思い入れを示すのかも。だけど、それはみんなイギリスの反動なんだ。自由はころがってるものじゃない。勝ち取るものなんだ。そして、アメリカはイギリスから自由を勝ち取った。」


山上竜彦と生方恵子の空間はこのスポーツバーの中で異質な「気」を発していた。ウインブルドンと最も繋がっているのは、この2人である。しかし、スポーツバーの全ての客がウインブルドンのセンターコートで戦っている鈴村とフェレラーの動きに注目している。二人は目では大型モニターを見ているがまるで関心がなさそうである。ふたりにとっては、もう勝ち負けなどはどうでも良かったのだ。


「恵子、USOpenを観終わったら、ロンドンを廻って帰らないか。俺は一度、コンコルドに乗ってみたかったんだけど、今はない。それでもニューヨークからなら、6時間でロンドンに行ける。今回は、いろいろお世話になった人もいるしなあ。この歳になると義理を欠いちゃあいけない。」
「それって、業務命令?」
「そうだ。今回の手配は全部、恵子がやったんじゃないか。恵子の人脈が大いに助けになった。それと、もうそろそろ心の奥にある「澱」(おり)を捨ててきた方がいい。捨てるところはその澱が着いた所じゃなければならん。」

恵子はもう言葉が出てこなかった。涙が目に滲んで、テレビモニターに映る鈴村徹が霞んで見えた。

「山口先生も観てるよな。あのじいさんが居なければ今の鈴村はあり得ない。ところで、菊山さんはまだ倒れてないかな。」

ちょうど、菊山の話題を山上が恵子に振った時、スポーツバーの大型液晶モニターは、ロイヤルシートの真向かいの観覧席で日の丸の鉢巻をして、日の丸の旗を振る日本人を映し出した。

「おい、恵子、菊山さんだ。」
「あなた、やっぱり行かなくて良かったわね。」


センターコート ウインブルドン 06


菊山幸雄が、最初から日の丸の鉢巻と日章旗で応援していたわけではない。鈴村が2セット連取してからだ。本当は鈴村が優勝して、セレモニーの時に取り出そうと思っていた。そして2セット目も鈴村が取った時、優勝を確信した。自然に鉢巻をして日章旗の小旗を取り出していた。この席はテニス協会の後輩に無理を云って手に入れさせた。来ることを決めたのも準決勝で鈴村がゴロワーズに勝ってからだ。初日から観に来ている先坂が毎日電話で報告してくる。流石に居ても立ってもいられなくなった。俺が山上さんに教えなかったら、今の鈴村はありえない。その優勝の瞬間を生で見ないなんていう手はない。どうして、山上さんはいっしょに来なかったんだろう。山上さんの分まで応援しなければ。


賀川恭子は、一年前に山上から鈴村に届いた手紙を思い出していた。そしてその手紙の通り、鈴村徹は、ウインブルドンに出場して、センターコートで決勝を戦っている。私は、ファミリーシートで応援をしている。きっと、時々テレビ画面に映るに違いない。パパもママもお姉ちゃんもまさか、私がこうやって日本中に顔を見せるとは思っていなかったはず。私だって、いや私はどこかでこうなるってずーと思っていた。徹と会った時から。


鈴村徹は、「今」の中にいた。今、集中すべきはフェレラーの放つボールの行方だけだ。2セット先取したことなど今はどうでもいい。勝ち負けさえどうでもいい。勝敗など結果に過ぎない。フェレラーがトスしたボールに神経を集中した。フェレラーのラケットがそのボールに当たるか当たらないかの微妙なタイミングで鈴村徹の身体は反応してセンター方向へのフラットサーブを予測した。


スポーツバー 六本木


「恵子、帰ろう。酔っぱらっちまった。」
「まだ、終わってないわよ。」
「まだ、この先3セットもあるんだ。カウンターにうつ伏せになって寝るような歳じゃない。」
「鈴村君が2セット取ってるから、もう1セットで終わるかもしれないじゃない。」
「云ったろう、この試合はフルセットまで縺れる。それも5セット目はタイブレイクがないから、どこまで続くかわかったもんじゃない。シャワーを浴びて、ひと寝入りした後だってまだ続いているさ。」
「わかったわ。タクシー呼んでもらう。」


生方恵子には、山上が鈴村徹の優勝を確信しているのがわかった。もちろん、フルセットまで縺れるのも事実かもしれない。この日が来ることを山上は知っていたのだ。菊山幸雄から鈴村を知り、鈴村を一年掛けてウインブルドンに出られるまでに育て上げた。これも運命の神様の差し金に違いない。


山上竜彦は、菊山から鈴村の名前を聞き、手紙を送り、そしてサンディエゴまで会いに行った事を昨日のように思い出していた。そう、2年も掛かったなあ。でもあっという間の出来事だった。今、鈴村は先のことなど何も考えていない。鈴村の「今」は、ただボールに集中することだけだ。しかし、この試合で勝っても負けても、昨日までの鈴村ではいられなくなる。周りが許してくれないのだ。ここからが鈴村の新しい人生の始まりだ。そして、俺にとっても明日からは新しい人生になるかもしれない。そう、人間なんて、毎日が新しい人生の始まりなのだ。ドライ・マティーニ4杯はやっぱり効くな。昔、初めて行ったアメリカで、3杯ドライ・マティーニを飲んで潰れたことを思い出した。意識が朦朧としてきた。どうやっても、最後まで鈴村の試合を見ることはできなかった。もう、俺の役目は終わっているのだ。山上竜彦は大型スクリーンに映る鈴村徹に小声で語りかけた。


「後は、おまえが神様を見方につけるだけだ。」


サンディエゴ USA 05


「メンタルトレーニングの有名な先生って、N大の山口貴夫先生のことですか?」


賀川恭子は、山上が送り込むというある有名なメンタルトレーニングの先生の名前を口にした。


「よくご存知ですねえ。あの先生、元気なんだけど今年80だからねえ。頼めば確実に来てくれるけど、今でも講演会とかで大忙しで、こっちに居られるのは、2週間ぐらいかなあ、長くて。」
「私の大学での専攻は、スポーツ心理学なんです。山口先生の本はほとんど読みました。うちの大学の教授でも知らない人はいませんね。もし、こちらに来ることがわかったら、どの教授も会いたがるだろうなあ。」
「その教授の方々には内緒にしておきましょう。今回山口先生に来てもらうのは、国際交流のためじゃないですから。恭子さん、あなたが、山口先生からメンタルトレーニングをしっかり学んでください。」


鈴村徹は決心したように山上の顔を見つめながら言った。


「山上さん、話はわかりました。それでは、これからどうすればいいんですか。」

「契約書を持参しました。これが、私の仕事です。スポーツ・エージェントとしての。私はウインブルドンで優勝が見込める日本人の逸材を探し当てた。それが鈴村さん、あなたです。しかしいくら逸材でもそのままでは、ウインブルドンで優勝することはできません。これから一年間、優勝する為に必要なことを全部やります。これに掛かる費用は私の事務所が全部負担します。普通であれば、鈴村さんにスポンサーをつけて、スポンサーがそういった費用を負担して、その何パーセントかをエージェントが戴くわけです。しかしながら、現在鈴村さんに多額の費用をかけてスポンサーするところはありません。実績がないからです。特に日本に住んでいないですから、日本国内のスポンサーがつきません。だから成功報酬をいただきます。鈴村さんは、来年のウインブルドンで優勝します。優勝すると約1億2千万円ぐらいの賞金を手にします。その賞金の半分をいただきます。もちろん優勝すればいろいろなスポンサーがあなたをスポンサーしたいと名乗りをあげてくるでしょう。スポンサー収入だけを考えれば日本人でウインブルドンで優勝すれば、一生お金に困ることはありません。あなたがウインブルドンで優勝した後、私をあなたの代理人にするかは、その時考えてくれれば結構です。私とあなたの契約はあくまでも、あなたが来年のウインブルドンで優勝するまでです。」
「もし、来年ウインブルドンに出場できなかったらどうなるんですか?」
「どんなことがあってもウインブルドンには出場していただきます。そして、センターコートで決勝を戦ってもらいます。」


賀川恭子が口を挟んできた。


「確かに、ウインブルドンに出場するぐらいなら、徹の実力でもいけると思うけど、決勝戦までっていうのはかなりむずかしんじゃないの。」
「もちろん勝負は水物です。有力な選手でも、そしていくら実力があっても勝てないことはあります。しかし、フェレラーは、今年で3連覇しています。三連覇するということは、ウインブルドンだけで21連勝していることになります。それでは、5連覇したボルグはといえば、35連勝、正確に云えば、6連覇目前の決勝戦でマッケンローに敗れましたから、41連勝したことになります。ウインブルドンでは、勝つためのプレイスタイルを持ち、勝つためのトレーニングを積んだものだけが勝利をつかめます。現在のプレイヤーでは、それはフェレラーしかいません。フェレラー以外のプレイヤーに勝つためなら、フェレラーになりきれれば勝てます。鈴村さんはフェレラーの技術も体力もお持ちだ。残るのはメンタルの部分だけです。そしてこのメンタルの部分が大きいのです。そしてウインブルドンで優勝するためには、そのフェレラーに勝たなければなりません。」

「フェレラーに一回戦であたることだってあるわよねえ。」


恭子はもうすでに徹がウインブルドンに出場できることは確信したようだ。


「ドローですから、それはあり得ます。特に鈴村さんは、予選を勝ち抜いてから出て行くわけで、シードが取れることもありませんから。もし、フェレラーと一回戦で当たれば、始めからセンターコートでの決勝戦ですね。」

「それもいいわね。最初にフェレラーに勝ったら、後は楽勝ですもの。」


恭子の夢はどこまでも広がっていった。


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サンディエゴ USA 05


「このアカデミーに来てもう何年になります?」
「六年目に入りました。今は、練習に使わせてもらったり、トレーニングジムを使ったりぐらいですね。ほとんど遠征ばかりです。」
「サテライト・サーキットですよね。」
「インターナショナル・イベントに出るのはなかなかむずかしいですけど、フューチャーやチャレンジャーはカリフォルニアでも結構たくさんありますから、賞金稼ぎはできますね。」
「失礼ですけど、ここでの生活費は?」
「お恥ずかしいですけど、まだ親からも仕送りをしてもらってます。でもここは、恭子とシェアーしてますから、そんなに負担になりません。賞金も稼いでますから、ふたりでお金に困ることはありません。」
「どうすると、ウインブルドンに出られると思いますか?その、方法論ではなくて、鈴村さんとしての心構えっていうんですか。」
「おっしゃっている意味はわかります。ウインブルドンに出たくてもこんな状態じゃ、予選にすら出られないじゃないかっていうことですよねえ。」
「私は鈴村さんを責めに来たわけではありません。ありのままをお聞きしたいのです。」
「やっぱり、強くならなければと思ってます。何しろ、試合で勝たないとポイントをもらえませんから。だけど、最近どうすれば勝てるのかがわからなくなってきちゃったんです。技術的には、それこそフェレラーにだって負けないと思うんだけど、勝ち続けるっていうことができないんです。ある日は調子がよくて、誰とやっても勝てそうな気がするけど、翌日になると、全く勝てる気がしなかったり。」
「もう一度お聞きします。ウインブルドンで本当に優勝したいと思ってますか?」
「もちろんです。」

「手紙にも書きましたが、戦後日本男子がテニスの世界で脚光を浴びたことは、ほとんどありません。松岡修三さんが一時期確かに日本を代表する選手でしたが、トップランキングまではどうしてもいけませんでした。その後はもうさっぱりです。しかし、松岡さんもそうですが、あなたのように、アメリカでプロ修行されている日本人は結構たくさんいました。ところが、そのほとんどは、志半ばで、日本に帰ってきてしまう。始めからウインブルドンに出場するなどという志さえない人たちもいる。遊びなんです。アメリカで2年も修行すれば、日本に帰ってきて、スクールのコーチにでもなれば十分食べていける。日本国内の試合なら上位だって夢じゃない。」
「実は僕も親からはもう帰って来いを云われています。今年が最後なんです。だから、9月のUSOpenにはどうしても出場したいんです。」


山上は少し興奮気味の鈴村の言葉を制した。


「あくまでも目標はウインブルドンです。USOpenでも、全豪でも全仏でもありません。ウインブルドン一本に絞るのです。あなたのプレイスタイルはウインブルドンで勝つためのプレイスタイルです。逆な言い方をすれば、ウインブルドンで勝つためには、あなたのような、そしてフェレラーのようなプレイスタイルでなければ今は勝てません。テニスはウインブルドンを制することが頂点なのです。」


ここからは、山上竜彦の独壇場だった。山上が考えた鈴村をウインブルドンで優勝させるためのプログラムを語り始めた。


「ウエアー、用具の心配はしなくて結構です。日本の代理店にサポートさせます。今年一杯はこちらから指定する米国内の試合に参加してください。来年に入ったら、コーチを附けます。そしてフィジカルトレーナーも附けます。マネージメントは恭子さん、お願いします。そしてもうひとつ恭子さんに頼みがあるのです。メンタルトレイナーになって欲しいのです。鈴村さん専属のメンタルトレイナーです。来月、日本のある有名なメンタルトレーニングの先生をこちらにお連れします。たぶん2週間が限界でしょう。その2週間でノウハウをつかんで欲しいのです。鈴村さんがウインブルドンで優勝できるかはそのメンタルトレーニングの良し悪しで決まります。」


センターコート ウインブルドン 06


鈴村は短い時間に瞑想状態に入れるようになっていた。そこが、喧騒の中でも、静寂の中でも。


控え室のドアーがノックされた。試合再開である。鈴村はゆっくり目を開けた。もう今までの記憶は頭の中から消えていた。「今」に集中できる。もうダニーは何も云わなかった。恭子とイアンが小さな声で「グッド・ラック」とつぶやいた。ウインブルドン センターコートの空は灰色から真っ青に替わっていた。もうこれから雨が降ることはない。そして日没までには十分すぎる時間があった。


スポーツバー 六本木 06


結局中断は、40分だった。これが海洋性気候なのだろう。40分前の雨がまるでうそのようにウインブルドンは晴れ上がっていた。


テレビの中の解説者はしきりに、この中断はどちらの得か損かを語っていた。もっぱら、フェレラー有利説を唱えている。現象的に観れば確かに、第11ゲーム目のサービスをブレークした鈴村が、雨でそれこそ水を刺されたわけだから、フェレラー有利かもしれない。フェレラーがほっとしたのは確かである。しかし鈴村もこのまま次のサービスゲームでキープできたかどうかわからない。


「本当に、ロンドンていやよね。雨ばっかり。これで鈴村君が負けたら雨のせいね。」
「恵子、自然は中立なのさ。神様はサイコロを振らないっていうじゃないか。鈴村にもフェレラーにも両方に恵の雨さ。少なくともふたりともそう思っている。だから、まだ勝負はついていない。」


また、山上は悟りを開いた空海のような発言をした。


センターコート ウインブルドン 06


センターコートに戻ってきたフェレラーと鈴村を観衆はスタンディング・オベーションで迎えた。これまでのウインブルドンでもこの光景は珍しい。40分の中断なので、5分間の練習タイムが設けられる。30分以内の中断ならば3分間の練習と決められている。グランドストローク、お互いのボレー、スマッシュ、そしてサーブ。
5分間などあっという間に終わってしまう。ピエトロ・クルトウリさんの「タイム」の声が響いた。


第2セット、ゲームカウント6-5で鈴村のサーブから再開する。このサービスゲームを鈴村がキープすれば、2セット連取となり、王手を掛ける。


ファーストサーブ。少しコースは甘かったがフェレラーの返球は浮き球になった。鈴村は自然に前に進み出てその浮いたボールをバックのミドルボレーでクロスに叩きつけた。

15-0

アドバンテージサイドからのサーブは、ワイドに大きく逸れた。セカンドも同じワイドにフラットを打ち込んだ。コースは少し甘くなったが、フェレラーのリターンはネットの前で失速した。

30-0

センターへのファーストサーブがノータッチエースになった。

40-0

勝負を掛けたワイドへのフラットはまたも大きく逸れてフォールトとなった。セカンドも全く同じワイドを狙った。惜しくもフォールト。

40-15

究極のスライスコース。これを取れる奴を知らない。

ゲーム

鈴村は2セットもものにした。しかし、ここから鈴村の忍耐が始まる。


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サンディエゴ USA 05


「アメリカでこんなにおいしい天ぷらそばが食べられるなんて思ってもいませんでした。この味なら、日本で店を開けますよ。テニスを引退したら日本でそば屋を開けばいい。相談に乗りますよ。おっと、今日は、まだ引退の話に来たんじゃありません。」


鈴村が作った天ぷらそばは正真正銘うまかった。そばは乾麺を湯がいたものだが、でかい鍋を使って、たっぷりのミネラルウオーターを使う。そばは、水が命だ。その水を市販のボトルから使うのだ。本当にすぐにでも東京でそば屋を開ける。食事が終わるとドリップしたレギュラーコーヒーをいれてくれた。これもまたうまい。喫茶店も開けるようだ。


「遠いところをわざわざご足労いただいてありがとうございました。」


鈴村は神妙にあいさつした。


「とんでもない。こちらこそ、突然手紙を送って、押しかけて来てしまいました。お礼を云うのはこちらのほうです。」
「電話でも言いましたけど、いただいたお手紙を3回読みました。何か、情熱みたいなものはすごく伝わってくるんですけど、いったい山上さんが僕に何をして欲しいのかが今ひとつよくわからないんです。」
「実は、もちろん手紙に書いたことは私の本心ですが、鈴村さんに私の気持ちをどのように伝えるのがいいのかを考えました。最初から、鈴村さんを訪ねてお話した方がいいのか、アカデミーを通して話した方がいいのかとか、いろいろ考えたのです。菊山さんにも、あなたがABCに居た時のジュニアのコーチの先坂さんにも相談しました。それで結局は、まず私の気持ちを手紙に書いて読んでもらうことにしました。あの手紙を書くのに、一週間もかかったんです。」
「それで、徹をウインブルドンにどうやって出すおつもりですか。徹もウインブルドンの出場をめざして今でもやってる訳だし。」


賀川恭子が話しに割り込んできた。


「私が確認したいことは、今でも本気で鈴村さんはウインブルドンを目指していらっしゃるのか、ということなんです。」


山上竜彦は少し座っている椅子から腰を前に出して鈴村の顔を真っ直ぐに見つめた。


「もちろん、テニスを始めてこれまでもそして今でもウインブルドンを目指しています。ただ、壁が厚いのは確かです。今年も結局は予選にもいけませんでした。来週からはUSOpenの出場をめざしてサテライト・サーキットを廻る予定にしてます。」

「ウインブルドンを目指しているのなら、そして本気で頂点を目指しているのなら、ここからは私に任せてもらえないでしょうか。私が必ずあなたをウインブルドンのセンターコートに送り込みます。そして、恭子さん、それにはあなたの力も必要なんです。」


センターコート ウインブルドン 06


第11ゲームのフェレラーのサーブを鈴村がブレイクしてゲームカウントは6-5で鈴村がリードした。次のサービスをキープすれば2セット目も鈴村が取ることができる。そして、一分間の休みが終わってクルトウリさんの「タイム」の声がセンターコートに木霊した時、空からはやや大粒の雨が降り始めた。クルトウリさんは、今年から新しくレフリーになったバート・シュナイダーさんからの指示を待った。


「サスペンディド」


ゲームの中断が決まった。即座にコートにカバーが掛けられる。選手は控え室に戻って次の指示を待つことになる。


この中断でほっとしたのは、フェレラーだけではなかった。鈴村もほっとしたのだ。2人ともまだ肉体的な疲れは感じていない。しかしフェレラーは、今までのウインブルドンで感じたことのない居心地の悪さを感じていた。それがどこからくるものなのかはわからない。鈴村もここにきてウインブルドンの持つ重厚さに押しつぶされそうな自分を感じていた。一回戦からおとといの準決勝まで全く感じなかったこの重圧は、決勝だからなのだろうか。鈴村にはわからなかった。


ウインブルドン センターコートの中にある選手の控え室は各選手が試合前、または今回のように雨天中断で使うようになっている。個室だが中はスペーシーでトイレとシャワーもついている。そしてテレビ中継が映るモニターも用意されている。BBCの放送だから、中断中のコメンテイターの話も聞ける。


鈴村が部屋に入るとほぼ同時に、コーチのダニー、トレーナーのイアン、恭子、兄の和也とその嫁の美佐子も入ってきた。和也が


「いっしょについてきちゃったけど、いいのかい?」


と、所在無さげに徹に聞いた。


「ファミリーは、特別なんだよ、この国では。姉さん、気楽にしてよ。ただ写真は撮っちゃだめらしいけど。」
「あら、残念ね。こんなところに入れた日本人なんてそういやしないんだから、写真でもあれば自慢できるのに。」


鈴村徹はまず着替えることにした。シャワーは浴びない。疲れが増すからである。身体はそれほど疲れていない。もちろん実際は疲労のピークにある。鈴村は予選で3試合、本選に入って6試合、ここ3週間ですでに9試合、セット数にして30セットを消化している。それでもサテライト・サーキットを考えれば、試合以外で疲れることはない。


今回のウインブルドンは今までから考えたら王様のような生活だ。ロンドンに入ったのは、最終予選が行われる一週間前。オフィース ヤマガミが全てアレンジしてくれた。コートまで十分の距離に家を借りてくれた。近くには杉山さんのチームもいた。今やテニスはチームである。鈴村ひとりがいくらがんばって技術を磨いてもウインブルドンに出場するぐらいはできるかもしれないが、そこから勝ち進んで決勝戦に出るなどということは絶対に無理だ。特に言葉と文化が異なる場所に2週間も滞在しなければならないとなると、日本人は勝負の前に精神的に参ってしまう。今回のチームは鈴村徹、賀川恭子、コーチのダニー・ロークとその奥さん、フィジカル・トレーナーのイアン・グリーンとその奥さんがチームメンバーである。賀川恭子はメンタルトレイナー兼マネージャーとして参加している。この6人でひとつ屋根で生活するのは今回始めてだが、皆それぞれ、こういう生活に慣れていた。目的はひとつである。鈴村をウインブルドンで優勝させること。


イアン・グリーンが身体に違和感がないかと尋ねた。足首に巻いているテーピングを巻き直して欲しいと頼んだ。着替えを済ませて、両足首のテーピングをし直してもらう。ダニーが一言「グッド・ジョブ」と目でウインクしながら鈴村の隣に腰を降ろした。ダニーはそれほど多くを語らない。そして決して命令もしない。鈴村が欲しい言葉だけを口にする。以心伝心。全てが信頼関係で成り立っている。ダニーは最後にこう云った。


「徹、これからが忍耐だ。もうすでに感じていると思うが、流れが徹から去りつつある。よくここまで保(も)たせたものだ。一度ニュートラルな状態になって、たぶん次にフェレラーがその流れを引き込むだろう。ニュートラルな状態の時はいつものようにボールに集中する。本能で動くのだ。もし流れがフェレラーに移った時はありとあらゆる方法で試してみるといい。フェレラーからその流れを離れさせるのだ。あせることはない。どっちみちフルセットだ。あせった方が負けだ。徹はフルセットでどれだけ続いてもやり遂げるだけの体力も気力もあるから。」


雨は20分で止んだ。レフリーのバート・シュナイダーさんから20分後に試合再開の指示が出た。鈴村はゆっくり目を瞑(つむ)った。山上が始めてサンディエゴに来た時のことを思い出していた。


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