名胡桃城強奪の実行犯、猪俣邦憲の正体 | 北条家は無実だった

北条家は無実だった

歴史研究家・森田善明のブログ

ときに、江戸時代になってから著わされた『北条記』、『吾妻記』、『関八州古戦録』などの軍記物語は、一様に、名胡桃城強奪事件は、先の猪俣邦憲が独断でおこなったことだと断定している。

上記のなかでもっとも早く成立した『北条記』(著者不詳・1672年以前に成立)を例にとれば、——
同書はまず彼のことを「ここに安房守(北条氏邦)のうち昔猪俣小平六範綱が末葉猪俣能登守(邦憲)という者、知恵分別もなき田舎武者あり」と紹介し、さらに、この事件が起こったあと、北条家は秀吉に、「上州なくるみの事はまったく北条下知にあらず。辺どの郎従ども不案内の慮外なり」、つまり、「名胡桃のことは、田舎者の家来(猪俣邦憲)が事情を知らずにやったことです」と陳謝したのだ、としている。
かくして彼は、主家を滅ぼした「知恵分別もなき田舎武者」として歴史に名を刻まれることとなるのである。

しかし、すくなくとも、『北条記』の上記の記述は、ほとんどでたらめなのだ。

まず、猪俣能登守(邦憲)の素性だが、——
おそらく『北条記』の作者は、彼の「猪俣」という名前から、鎌倉時代から武蔵に蟠踞する猪俣党の一族だろうと見当をつけて、「猪俣小平六範綱の末葉」としたのだろうが、実際の彼は、もとの名を富永助盛といい、猪俣党とは縁もゆかりもない出自だったのだ。その富永助盛は、北条氏邦(氏政の二番目の弟)のもとで軍事と内政の両面で活躍し、北条家の上野進出の先鋒としての役割を担い、そのからみで天正8年(1580)末から天正10年(1582)までのあいだに、上野において由緒のある「猪俣」に名のりを変えたのである。さらにいうと、富永家は北条家譜代の家筋であり、その一族である富永助盛については、「永禄6年(1563)以前に小田原から北条氏邦に同行して武蔵へ来た」という可能性も示唆されており(浅倉直美『後北条領国の地域的展開』岩田書院)、これが事実なら、「田舎武者」という形容も、彼にはそぐわないのである。
もうひとつ、『北条記』は、北条家が名胡桃城強奪事件について、「事情を知らない家来がやったことだ」と陳謝したといっているが、実際には、北条家はこの事件について「まったく知らない」と全面否認しているので、これも事実に反している。

ときに、ここでは『北条記』の記述を正したが、『吾妻記』、『関八州古戦録』、『改正三河後風土記』、『加沢記』も、「猪俣邦憲を武蔵に蟠踞する猪俣党の一族だ」と、同じでたらめをいっているのである。
さらに、北条家が秀吉に「名胡桃城強奪は猪俣邦憲らが勝手にやったことだと陳弁した」という虚構については、この『北条記』のあとに成立した『関八州古戦録』、『改正三河後風土記』に受け継がれている。
要するに、どの軍記物語も似たりよったりで、これらの記述はまったく信用できない、ということである。

ところで、実際の北条家は、名胡桃城のことを秀吉に責められたあとも、変わらずに猪俣邦憲を重用し、引き続き彼に上野における重要拠点、沼田城を預けた。しかも、いよいよ秀吉軍との合戦も近づいた天正18年(1590)の正月16日には、隠居の氏政がこの邦憲に、干海鼠(干したナマコ)、海鼠腸(ナマコの腸管で作った塩辛)を贈って、「上野のことは沼田一城に極まる」と激励し(「猪俣文書」)、翌日には、北条氏照(氏政のすぐ下の弟)が、「その地の取り仕切りについては、そのほうが在城しているので安心している」と邦憲に寄せる信頼を明かしているのである(「猪俣文書」)。
しかるに、上記のような猪俣邦憲に対する北条家の態度を見ても、この邦憲が独断で名胡桃城を奪取したなどということはなかったように思えよう。

ちなみに、この名胡桃城の強奪については歴史学者のあいだでも、猪俣邦憲の独断でやったとするもの(小和田哲男『神奈川県史 通史編』1981など)と、裏で氏政が指示を出していたとするもの(平岡豊「猪俣能登守について」1984など)とに推理が別れるが、「猪俣邦憲の独断でやった」とする説は、先に見たような、まったく信をおけない軍記物語の記述がその根拠であり、「裏で氏政が指示を出していた」とする説のほうは、先に示したような氏政の書簡や、「名胡桃城の事件が現れたあとも、猪俣邦憲が変わらず重用されている」という事実から想像して、そういっているにすぎないのだ。どちらも「猪俣邦憲が名胡桃城を奪った」と見ているが、実際のところ、肝心の「猪俣邦憲が名胡桃城を奪った」という確たる証拠は、前回の記事でも述べたとおり、存在していないのである。

実をいうと、私も、この名胡桃城奪取事件に白黒つけようとして、懸命に史料を漁ったのだが、ついに、北条家側がこの城を奪ったという証拠は出てこなかった。
北条家が名胡桃城を奪ったといっているのは、秀吉と三成だけで、その彼らにしても、「この城を奪ったのが猪俣邦憲だ」とはいってはいないのである。

しかるに、なぜ、北条家を滅亡に追いやるほどの大事件の、実行犯の名前すら当時の記録に残っていないのか。いささか不自然な印象を受けるが、
いま、あえてその答えを明かしてしまえば、——

そもそも、名胡桃城は誰からも強奪されていなかったからなのだ。

だから、北条家側がこの城を奪ったという証拠など、いくら探したところで出てこようはずがなかったのである。

以前、当ブログで私は、過去において北条氏政が、上野の東部を信長に没収されても文句一ついわず、せっせと贈り物を届けていたというエピソードを紹介し、
——北条家がこの大事な時期に、名胡桃城などという小城を奪おうとするはずがない。
という見方を示したが、結果として、この私の勘は当たっていたのだ。

しかるに、「北条家が名胡桃城を奪取した」という話にどのような裏があったのか。

次回は、いよいよ、それを明かすとしよう。




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