北条家は無実だった

歴史研究家・森田善明のブログ


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さっそくですが、
前回予告いたしましたとおり、
——私の本(『北条氏滅亡と秀吉の策謀』)のなかで、「信頼性の低い史料が重要視されている」
という、歴史学者T氏の指摘に反論いたしましょう。

ちなみに、このT氏とはいかなる人物で、いったいどのようないきさつがあって私がこのような記事を書いているのか、といったことをご存じなく、かつ知りたいという方は、ご面倒でも前回までの記事、一連の「反論」シリーズをお読みください。

さて、「信頼性の低い史料が重要視されている」というのは、Amazonのカスタマーレビューで、そのT氏がいっていることなのですが。——
問題のレビューには、上記の批判が、私が扱ったどの史料についていったものなのか、また、彼がなぜそういっているのか、といった肝心なことが示されておりません。
しかし、T氏がいうには、このレビュー自体は私の本についての批判の「短縮版」にすぎず、T氏は、このように批判する根拠や理由を示した記事をすでに自身のブログにUPしているとのこと。
そこで、その批判のオリジナル版とやら(「名胡桃城事件は存在したと言わざるを得ない」と題された彼のブログ記事)を見てみますと、以下のような記述に目がとまります。

森田氏は、豊臣方が名胡桃事件以前に北条攻めを決めその準備をすすめていたことを挙げ、(中略)事件がでっち上げだったと主張する根拠のひとつにしていますが、やはり状況証拠に過ぎず、しかも森田氏が引用した(155~156頁)豊臣による北条攻めの準備とされる史料は、いずれも要検討(『小田原市史』史料編原始古代中世1—813頁)、この場合は文言などからして後世に作られた疑いのある、信頼性の低い、つまり大事な主張をする積極的根拠としてはつかえないレベルの史料です。

つまり、どうやらこれが、
私が「信頼性の低い史料を重要視している」
という根拠(?)らしい。

見ると、これまで当ブログのなかで取りあげてきた彼の文章とはすこしちがい、問題の史料がどれなのかということも特定することができ、かつ、根拠らしきものも一応は示されています。
しかるに、これでやっと私も反論らしい反論ができるというものです。

さて、拙著をお持ちでない方のために、まずは、私が拙著のなかで使ったどの史料がT氏の批判にさらされているのか、それを明確にしておきますと、——

この本のなかで私は、
「決定的な事実を明かせば、秀吉は、この事件(名胡桃事件)が起こるだいぶ前に、[北条家討伐]を決め、すでにその準備をすすめていたのだ」
と断定して、
「これには動かぬ証拠が二つもある」
と、上記のことを裏づけるものとして、

①秀吉が10月10日に側近の長束正家に、北条家討伐のための兵糧の用意を命じた文書(「碩田叢史十四」)
②秀吉が10月10日に越後の上杉景勝に、北条家討伐の際の軍役を知らせた文書(「覚上公御書集」)

この二つの史料をあげております(155~156頁)。

ちなみに、信頼できる史料によるならば、「名胡桃城事件」のことがはじめて世に現れるのは11月3日のこと(『家忠日記』)。
しかるに、上の二つの史料は、秀吉が名胡桃事件が世に現れる20日以上も前に、「北条家討伐」の準備をはじめていたという事実の証拠となりうるものです。

つまり、T氏の批判にさらされている史料というのは、いまあげたふたつの証拠、①と②の史料にほかなりません。

さて、これらの史料について、T氏は、

いずれも要検討(『小田原市史』史料編原始古代中世1—813頁)、この場合は文言などからして後世に作られた疑いのある、信頼性の低い、つまり大事な主張をする積極的根拠としてはつかえないレベルの史料です。

と、いいきってしまっているわけですが。

おそらく、一般の人は、この説明では、T氏がなにを根拠にそういっているのかが、わからないでしょう。

しかし、T氏がこのようにいう根拠は、

いずれも要検討(『小田原市史』史料編原始古代中世1—813頁)、

これなのです。
つまり、その答えは『小田原市史 史料編 原始古代中世Ⅰ』の813頁のなかにあるのですが、——

この論をすすめる前に、ひとつ、重大な指摘をさせていただくと。

ここでT氏は、他人の意見を批判する者の態度としては、かなり問題のあるチョンボ(反則行為)をしているのです。

それはなにかといいますと、

私は拙著のなかで上記のごとく、

①秀吉が、長束正家に、北条家討伐のための兵糧の用意を命じた文書→「碩田叢史十四」
②秀吉が、越後の上杉景勝に、北条家討伐の際の軍役を知らせた文書→「覚上公御書集」

というように、史料の出典を明示しております。
にもかかわらず、あきれたことにT氏は、私が示した史料ではなく、別の史料で、先のような批判を展開したのです。
しかも、T氏が勝手にすり替えた史料は、私が本のなかで述べている内容の出典(根拠)とはなりえないものなのです。
(まったく。……)
T氏は、文献史学者を名乗っているくせに、著者が熟考のすえに選んだ出典(根拠)をなんと心得ているのでしょうか。
しかも、このようなチョンボを一般の読者の目の届かないところでおこなっているという点が余計に許しがたい。
これまでに当ブログであきらかにした彼の所行といい、これといい、どこまでも腐っている。
世の中をなめきっています。

しかし、この怒りはひとまずおいて、

——どのような経緯でT氏が、このようなチョンボをするにいたるのか。

それを暴いておきましょう。

実は、その答えも、『小田原市史 史料編 原始古代中世Ⅰ』の813頁のなかにあるのです。

しかるに、そこ、『小田原市史』の813頁に、なにがあるのかといいますと、

Ⓐ拙著のなかで私が使った①の文書
Ⓑ拙著のなかで私が使った②の文書とひじょうによく似た文書

この二つなのです。

そして、T氏が利用したのは、
このⒶⒷ両文書に付けられた、次のような『小田原市史』の註でした。

⑴碩田叢史 後藤田碩田が、主に豊後国に関係する史料を書写・編集した文書集。本巻では、以下の二点(ⒶⒷ両文書を指す……☆森田注)及び784号史料を採録したが、何れも文言等に検討の余地がある。

要するに、『小田原市史』は「碩田叢史」という文書集に収められている、上記ⒶⒷの文書と784号史料、合わせて3点を採録した。しかしながら、『小田原市史』の編者は、この3点については、その内容(文言等)に検討の余地があると考えている、——ということです。

さて、『小田原市史』のなかにこの註を見つけたT氏は、「何れも文言等に検討の余地がある」という『市史』の言葉をそのまま借用して、「いずれも要検討」と、私が使った史料にケチをつけたのでした。
しかし、それにつづけて、

この場合は文言などからして後世に作られた疑いのある、信頼性の低い、つまり大事な主張をする積極的根拠としてはつかえないレベルの史料です。

とまでいいきってしまったのは、T氏のかんぜんな勇み足でした。
わかりやすくいうと、このT氏の言葉は、彼が「検討の余地がある史料イコール、後世に作られた疑いのある史料」と、乱暴につなげてしまう短絡思考(単線思考)の持ち主であったがゆえに犯してしまった、まちがいなのです。

ちなみにT氏は、2月17日、Amazonのある人のレビューに寄せたコメントのなかでも、例の史料について、

文言から、戦国時代より後の時代に作成されたものとみられる

などといっておりますが。これも同様。彼の早とちりから出た根拠のない想像にすぎません。
ちがうというなら、具体的に、ⒶⒷ両文書のどの文言について「戦国時代より後の時代に作成されたもの」と見なしうるのか、文献史学者として、ちゃんと論じてほしいものです。
ですが、おそらく、それは不可能でしょう。
なぜならば、ⒶⒷ両文書の文言のなかに、「戦国時代より後の時代に作成されたもの」と断定しうる材料など存在しないからです。

ただし、本件とは直接関係のない『小田原市史』の784号史料については別です。この文書では、秀吉が織田信雄のことを「信雄卿」と呼ぶなど、文言のなかにあきらかに違和感を覚える表現があります。ゆえに、この784号史料については、『市史』の編者に、「検討の余地がある」とされても、しかたがないといえます。

では、Ⓐ・Ⓑの文書については、『小田原市史』の編者は、どこに「検討の余地がある」としたのでしょうか。

その答えを私が、『市史』の編者に為り変わっていってしまうならば、
それは、日付なのです。
つまり、『市史』の編者は、
——「名胡桃城事件」のことがはじめて世に現れるのは11月3日なのに、その20日も前に秀吉が兵糧の準備を命じたり、軍役を報せているのはおかしい。
そう考えたので、このⒶ・Ⓑを「検討の余地がある文書」としたのです。
ですが、この『市史』の編者が感じた違和感は、通説を事実と信じきっているがために覚える感覚で、あらたに拙著で私が展開した説に目をとおせば、この違和感はたちまち解消されます。
すなわち、疑うべきは史料のほうではなく、通説だった、というのがこの話の「落ち」なのです。

それはそうと、——
私は、このように『小田原市史』が、「碩田叢史」を出典とする3つの文書を採録して、先の註のなかで、ひとまとめに「検討の余地がある」と表記したために、一部に誤解を招いたのではないかと危惧いたしております。
要するに、その心配とは、
——これを見た一部の読者は、「碩田叢史」という文書集は信用できない史料だと誤解してしまったのではないか。
ということなのです。
もっと踏み込んだことをいえば、T氏も、そのひとりであった可能性があります。
しかし彼が、もし、ちがうとおっしゃるならば、
——T氏は、私の本を貶めるために、あえて、この「碩田叢史」を、歴史事実の追求には使えない、後世に成立した軍記物語やあやしい家譜のような史料だと錯覚させた。
ということになり、それはそれで問題がある、という話になるのですが。……
ともかく、この「碩田叢史十四」とは、『小田原市史』の註にもありましたとおり、江戸末期の学者、後藤田碩田が学究のために収集した古文書をまとめたもので、後藤田碩田の創作物ではありません。しかるに、とうぜん、これに収められた史料は、個別に検証・精査・選別するべきですが、それは、同じような生い立ちを持つどの文書集にもいえることです。つまり、けっしてこれを編んだ後藤田碩田という人や、その所産である「碩田叢史」自体が信用できないという話にはならない。その証拠に、この史料を自説を支える根拠として使っている学者だっていらっしゃいます。

あれはT氏の早とちりだったのか、それとも、私の本を貶めたいがために、作為のもとに「碩田叢史」を信用できないとしたものなのか。……
いずれにせよ、先のような彼の発言は、読者をミスリードするもので、問題です。
そして、いずれにせよ、T氏が、『小田原市史』の註をろくにたしかめもせずに拙著への攻撃に使った、ということだけは、たしかなのです。

ところで、——
はからずもT氏のチョンボによって、
この世のなかに、私が拙著のなかで使った、

②秀吉が越後の上杉景勝に、北条家討伐の際の軍役を知らせた文書→「覚上公御書集」

この史料と、
これとそっくりな文書Ⓑ(『小田原市史』が採録した「碩田叢史十四」に収められている文書)が存在する、という事実が、浮き彫りとなりました。

しかも、この事実には、おそらく『小田原市史』の編者ですら気づいていなかったろうと思われます。
なぜならば、もし、似通った②とⒷ、ふたつの文書の存在に気づいていたなら、『市史』の編者は、かならずや、そのことを註記したでしょうし、まちがいなく、『市史』には、Ⓑではなく②のほうの文書を採録したはずだからです。

ここで、ちょっと、②とⒷのちがいについて触れておきましょう。

まず、②のほうですが。
これは「覚上公御書集」、すなわち米沢藩に残された上杉景勝に関する文書を集成したもの、という出典元の史料の成り立ちが示しているとおり、秀吉が上杉景勝に与えた文書と考えられます。
そして、その内容は、次のようなものです(『上越市史』より)。

   来年関東陣御軍役之事
五畿内半役、中国四人、四国同、自大坂東到尾州六人役、
北国六人役、遠州・駿州・信州五ヶ国七人役、
 右、任軍役之旨、来春三月朔日令出陣、攻平於小田原
 北條可有忠勤者也、仍如件
  天正十七年乙丑十月十日  秀吉公朱印

いっぽうⒷですが。
これは、「碩田叢史十四」に収められているもの、すなわち江戸末期の学者、後藤田碩田が収集した膨大な古文書のなかのひとつなのですが。さらにつけくわえると、この文書には「山中吉(橘)内聞書これを写す」と注記がついています。
ちなみに、山中橘内とは、近江甲賀郡出身で、当時、秀吉の右筆をしていたとされている人物です。
しかるに、そのⒷの内容とは、次のようなものなのです(『小田原市史』より)。

   条々
一来春関東陣軍役之事、
一五畿内半役、中国四人役之事、
一四国より尾張迄六人役之事、
一北国六人半役之事、
一三河・遠江・駿河・甲斐・信濃七人役之事、
 右、任軍役書付之者(旨)、来三月令出陣、小田原北条攻亡、可有忠勤者也、仍如件
  天正十七年丑十月十日              秀吉

さて、この両文書を見くらべてみますと、
条書になっている・いないのちがいや、北国の軍役が六人か・六人半かのちがいはあるものの、文章表現も含めて両者の内容はひじょうによく似かよっている、といえましょう。
ただ、Ⓑのほうは、側近(右筆)の(からの?)聞書ということで、宛所もなく、この文書が誰に送られたのかが、さだかではありません。想像するに秀吉は、これと同文の文書を越後の上杉景勝だけでなく、たとえば常陸の佐竹義重などにも送ったのではないでしょうか。これに宛所がないのは、そのためとも考えられましょう。

ともかくも、
——このように、別の伝わり方をしたほぼ同文の文書が、ふたとおり存在している。
というこの事実から、Ⓑと②は、いよいよ史料としての信用度を増すことになります。
さらに、①(=Ⓐ)も②もⒷも、同じ10月10日に発給されたということも、たんなる偶然とは考えづらく、この日に[北条家討伐]の準備がはじまる理由を、あらためて考え直す必要もでてきます。

話のついでに、ここに①(=Ⓐ)の現代訳もあわせて載せておきますと、

   条々
一、兵糧奉行長束大蔵大輔(正家)、ならびに小奉行十七人に仰せつける
一、年内に代官方より二〇万石を受け取り、来春早々に船にて駿河江尻および清水へ運送し、蔵を建てて入れておき、これを全軍へ配ること
一、黄金一万枚を請け取り、伊勢、尾張、三河、駿河にて八木(米)を買い調え、小田原近辺の港へ届けておくこと
   附、馬二万匹の飼料も調え、滞りなく下賜するように
  右の旨をかならず守るように。よって件のごとし
   天正拾七年十月十日              秀吉

見てのとおり、この①は、ひじょうに「簡潔にして要を得た文書」です。
兵糧奉行を誰にするのか。いつまでに誰からいくらの米を受けとって、いつ、いかなる運搬方法でどこへ運び、どこに集積しておくのか。それに用いる資金はいくらで、米はどこで仕入れるのか。等々、……
具体的な人名、地名、役職、期日、石高、数量を明記しながら指示しています。
もちろん、その原文に目をとおしても、そのなかに、「戦国時代より後の時代に作成されたもの」と断定できる材料(文言)などは見当たりません。
にもかかわらず、これが偽文書だというのなら、いったい後世の誰が、どのような目的で、このような精巧な文書を偽造したと考えられるのか、ぜひ、その所見をうかがってみたいものです。
ちなみに、『小田原市史』も、この①に記されている内容が他の史料によって裏付けられることを、次のとおり認めております。

長束が小田原合戦の際に兵糧調達の任にあったことは、のちに鳥居元忠が秀吉に献じた大豆の受取状を発していることからも窺える(鳥居文書)。また秀吉がこの合戦に際し兵糧を船で廻送させたことはルイス・フロイスの『日本史』に見えており、天正一八年正月の真田昌幸宛朱印状に「四国西国の人数兵糧以下の儀、船手を以って申し付け候」とあることからも明白である。(『通史編』903頁)

くどくどと説明するのも、もうこのへんでやめておきましょう。

毎度毎度、私はこのようにちゃんと理由や根拠を示しながら反論しております。
しかし、いっぽうのT氏はといえば、——
これまでの反論シリーズであきらかにしてきたとおり、
本に書いてあることは無視して、書いてもいないことを批判したり、
まったく見当ちがいの指摘を得意になって講釈したり、
根拠をいっさい示さない雑言によって私やその本を貶めたり、……
と、お世辞にもまともな批判とはいえない雑文を書いて、「自分は学者だ」とふんぞり返っているのです。
そればかりか、今回取り上げた話題についていえば、
私の本を攻撃するために、『小田原市史』の註に記されていた、ほんの一行にも満たない言葉を、自身の都合で拡大解釈して歪曲させたのみか、私が示した出典史料を勝手にすり替えるというチョンボまでしていたわけです。
——まったく、まともにつき合うのもバカらしい、ずさんな論文。
というのが、私の、T氏の文章に対するいつわらざる評価なのですが。
バカらしいからといって、もし、このような反論をいっさい私がしなかったならば、当ブログの読者ですらも、ある一定の割合の人たちは、T氏が述べていることを、なかば信じたままでいたことでしょう。
たとえば、現に、いま現在のAmazonの私の著書(『北条氏滅亡と秀吉の策謀』)のカスタマーレビューをのぞいてみますと、T氏のレビューを読んだ22人中、8人もの人が、「このレビューが参考になった」と答えています。しかも、その人数は(全体としては少数とはいえ)、着実に増えつづけているのです。
——これはもう、どうしようもないこと。
と、私もあきらめておりますが。いささかでも、このような憂うべき現状に歯止めをかけようとはじめたのが、この反論シリーズです。

私とて争いごとは好まないし、できれば面倒なのでしたくない。一般的な常識すら持ち合わせていない人物が相手だとなれば、なおさらです。
しかし、目にあまる横暴に対しては、声をあげたり、場合によっては戦う意志を示す、ということも必要でしょう。
実際、私の解説を読んで、はじめて、彼がどれだけめちゃくちゃなことをしていたのか気がついた、という方も多いはずです。
そう、あなたは驚いたでしょうが、世のなかには、まれにこんな、T氏のような人間がいるのです。
そうした現実を誰かに伝えられるということにも、これを書く意味は見いだせます。

ところで、そうはいいつつ、
実は、この一連のシリーズを、私は、戦うというよりはむしろ、
——T氏がネット上にまき散らした汚物をかたづけるという、一種の清掃活動をしているのだ。
という感覚で書きついできました。
つまり、彼の残した汚物に対して、「汚い」と苦情を述べてきたつもりでいる。
そうしたのは、要するに、彼とは最後まで対話をするつもりがないからで。そもそも、人として心得ておくべき作法も知らない相手との対話など、できるわけがないし、望んでもいないからです。これは、最初に彼を無視すると決めたときから、一貫していることです。
話を掃除に戻しますと、まだまだ叩けば汚い塵や埃がいくらでも舞い立ちそうな、この彼の論文ではありますが。
今回の記事(清掃活動)をもって、
——目立った大きなゴミはざっとかたづけられた。
ということにいたしまして、とりあえずは、このシリーズを終了したいと思っております(私、生来ものぐさな性質なもので。小さなゴミは見て見ぬことにいたします)。

というわけで、この、いくら読んでも陰鬱な気分にしかならない反論シリーズに、最後までおつきあいくださったみなさんには、心からお礼を申しあげたい。
本当にありがとうございました。そして、お疲れさまでした。
実は私も、これで肩の荷がやっと下ろせたような気がいたしております。


さて、いうまでもありませんが、
①(=Ⓐ)も②もⒷも、「戦国時代より後の時代に作成されたもの」などというのは、T氏の早とちりから出た妄言です。
よって、
——私の本(『北条氏滅亡と秀吉の策謀』)のなかで、「信頼性の低い史料が重要視されている」
などという彼の発言も、そもそもの根拠を失う。
というのが、今回の結論となります。



追記:この反論シリーズ連載のあいだ、コメントをくださった方々へ。せっかくいただいたご意見・ご感想・情報に対して、私からなんのコメントも返さず、失礼いたしました。
いうまでもなく、皆様からいただいたご意見・ご感想・情報はありがたく拝見し、参考にさせていただきました。
勝手ながら、この「反論シリーズのあいだはコメントに返事を書かない」という方針を定め、貫かせていただきました。そうさせていただきましたのは、誰と誰ということにかぎらず、争いが飛び火したり、あるいは新たな火種がそのやりとりのなかで生まれるということを警戒したからです。該当する期間のコメントのなかには、この争いとはあきらかに無関係な彩風さんのコメントもございましたが、これにも返事を書きませんでした。ホント、すみません。
なお、いうまでもございませんが、もちろん、今回のこの記事へのコメントにも上記の方針は適用されます。なのでどうか、つい私がその禁を犯してしまいたくなるような面白すぎるコメントは、まだ書かずに、とっておいてくださいね。



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