【歴史考察】尾張の兵は、本当に弱い? | 李厳さんの独り言

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どうも、李厳です。









尾張の兵は弱い





そんな話を聞いた事はありませんか?

多分、少しでも戦国史をかじった事がある方ならば、一度は聞いた事がある話ではないかと思います。





…私も前々から気になっていたんです。


そこで調べて見たんですが、近年この説を振りかざしておられたのが、有名な司馬遼太郎でした。

彼は、色々な公演や自著で、「尾張は肥沃な国で、民が金持ちである為にハングリー精神に欠ける」といった理由で尾張兵を弱いとし、一方でお隣の三河国の気質は、「極端な農民型で律儀で篤実で義理に厚かったから強かった」と、今で言う『県民性』にその原因を帰していました。




無論、司馬遼太郎は尾張人を見下して言っている訳ではないでしょう。

そんな弱卒を率いながらも天下取りを目指した信長は凄い…という論調の前段階として、かの説を唱えていた訳ですが…


尾張人にとっては良い迷惑ではないですかね?













……でも、本当に弱いのか?

大体、国単位で弱い…という事は、『誰が率いても弱かった』事を実証しなければなりません。
そこで戦国時代の、尾張兵の外国との主な合戦を挙げてみます。



×=永正十四年(1517)、曳馬の戦い(斯波義達)
○=天文十年(1541)、三河安城城奪取(織田信秀)
○=天文十三年(1544)、美濃大垣城奪取(織田信秀)
×=同年、美濃稲葉山攻め(織田信秀)
△=天文十七年(1548)、三河小豆坂の戦い(織田信秀)
-=同年、美濃大垣城攻防戦(織田信秀)
×=天文十八年(1549)、三河安城城落城(織田信秀)
×=同年、美濃大垣城落城(織田信秀)
-=弘治二年(1556)、美濃斎藤道三への援軍(織田信長)
○=永禄三年(1560)、桶狭間の戦い(織田信長)
○=永禄四年(1561)、森部の合戦(織田信長)
×=同年、十四条合戦(織田信長)
△=永禄十年(1567)、第一次伊勢征伐(滝川一益)
○=同年、美濃稲葉山攻め(織田信長)
△=永禄十一年(1568)、第二次伊勢征伐(滝川一益)


○=勝利
×=敗北
△=勝敗つかず
-=戦闘過程不明、戦略的敗北

通算5勝5敗3分2無効試合





大軍で小城を攻めた小さい戦歴は加えてません。
また、直接戦闘では勝っていても、戦略的に敗北した戦はドロー扱いにしております。


信長の美濃攻略以後は、尾張兵単独で戦う状況がなかったので、戦績はそこまでにしておりますが、総合戦績を見る限り、さほど尾張兵の弱さは感じられません。









…が、これはカラクリです。

記憶と記録に残るような大きい戦だけで論じないと、意味がないですものね。
そこでマイナーな戦を除外して考えてみると…

×=天文十三年(1544)、美濃稲葉山攻め(織田信秀)
△=天文十七年(1548)、三河小豆坂の戦い(織田信秀)
×=天文十八年(1549)、三河安城城落城(織田信秀)
○=永禄三年(1560)、桶狭間の戦い(織田信長)

となります。
ここでいうメジャーマイナーとは、江戸時代に知られていたか否か?です。

1勝2敗1分…


しかし、江戸時代の史料では、小豆坂の戦い自体も、『戦自体は引き分けたが織田方の負け』としているので、実際は1勝3敗となります。

さらに、率いた人別に見ると、



織田信秀=0勝3敗
織田信長=1勝0敗







…そうなると、尾張兵が弱いのではなく、織田信秀が弱いのでは?

実際、信秀はよく負けています。
信秀には、『尾張の虎』というあだ名がありますが、江戸期の史料には、そういう呼称はありません。


この『尾張の虎』というのは、いつから呼ばれ始まったものなのでしょうかね?

吉川英治の『織田信長』でも、『尾張の虎』とは書いてなかった気が…







でも、なぜ『織田信秀が弱い』ではなく、『尾張兵が弱い』と言われるのか?








ここには、血筋の問題がありました。

徳川三代将軍家光の母は、来年の大河ドラマの主人公の浅井長政の三女小督ですが、小督の母お市の父親…つまり家光の母小督の外祖父が織田信秀なのです。


さすがに将軍の先祖(母系とはいえ)を貶める事は憚られる為、信秀が弱いとは言えなかった…というのが、一つにはありました。







もう一つは、江戸時代に流行った軍談の教科書『甲陽軍艦』や、江戸初期に編まれた『徳川実記』などの徳川麗賛史料らが、揃って信長の戦いにケチをつけ始めたからです。



例えば、姉川の合戦に関して…


信長は『3万5千』もの兵を持ちながら、『わずか3千』の浅井勢にメチャクチャ押し込まれる始末で、かたや徳川勢は『たった5千』の兵で、朝倉勢『1万5千』の兵を蹴散らした上、劣勢となった織田の本陣に近づいた浅井勢に切りかかった為、織田信長は辛くも勝利する事ができた
(『甲陽軍艦』の引用)



…というのが江戸時代の諸人の認識ですが、他の『徳川実記』や『改訂三河風土記』などの史料も、ビックリするぐらい徳川家による粉飾が満載の自己満ブログなんですよ。





他にも例を挙げましょうか?

三方ヶ原の戦いでは…だらしない佐久間信盛ら織田家の援軍が、とっとと退却してしまった為、そのせいで陣形が崩れた徳川勢は、勝てたかもしれないのに敗北してしまった…かのように書いています。


長篠の合戦でも、徳川麗賛史料は織田勢に活躍の場を与えてくれません。

長篠では、なぜか織田勢は武田勢に押されており、徳川勢の奮戦でさも勝ったかのような書かれ方です。



浅井の造反によって、信長が朝倉攻めを断念して金ケ崎から撤退する際も、信長に使い駒のごとく置き去られた徳川勢は、迫り来る浅井・朝倉らを勇躍振り切って、ボロボロに逃げ帰ってきた織田勢とは異なり、さも堂々と帰ってきたかの如くです。






さらに遡って織田信秀の時代の小豆坂の合戦でも、その場にいないはずの徳川勢が、なぜか奮戦し始めます


本来、小豆坂の合戦は、織田と今川の落ちぶれた松平家の後の三河覇権争いによる戦で、戦の結末は…夜まで押しつ押されつの泥仕合で、結局ドローなんです。


…しかし徳川麗賛史料にかかると、小豆坂の合戦はなぜか今川家に味方した松平(徳川)が、織田と戦う合戦になってしまい、しかも松平方の優勢勝ちという結果で記されております。







ここまで打ちのめされた織田勢は、信秀の時代は純粋に尾張兵ですが、信長の時代は濃尾の兵です。

しかし、信秀時代の濃尾間の戦では、やたら尾張が負けている戦ばかりがクローズアップされるので、


【国別兵士の強さランキング】

甲斐兵=三河兵(『甲陽軍艦』他)
三河兵>尾張兵(『徳川実記』・『三河物語』他)
美濃兵>尾張兵(『信長記』他)
近江兵>尾張兵(『徳川実記』・『三河物語』他)


と扱われ、その結果…



三河兵=甲斐兵>近江兵≧美濃兵>>>>>尾張兵


というようなイメージ作りに成功してしまったんですね。








…ところが、ここで一つ問題が残ります。



江戸時代にだって尾張は存在しました。

まして、徳川御三家の尾張徳川家が治めているのです。




…そんな尾張を貶めて、失礼にあたらないのでしょうか?






そこには、当時の政争が隠されていました。

享保元年(1716)、7代将軍徳川家継が没した事により、尾張藩の徳川継友と紀州藩の徳川吉宗らの間で、次期将軍の座を争う一幕がありました。


御三家筆頭の家柄の継友か?
家康に親等が近い(吉宗は曾孫、継友は玄孫)吉宗か?


…結果はご存知の通り、吉宗が8代将軍となるのですが、この時期以降、唐突に戦国時代の軍談が一躍隆盛を迎えます。

そこでクローズアップされたのが、『尾張兵は弱い』という逸話なんですね。



すなわち、晴れて将軍になれた紀州藩出身の吉宗が、ライバルだった尾張藩主継友に対し、嫌がらせのつもりで『尾張兵は弱い』という説の流布を、黙認したように思われます。




実際、家継の死をもって、信秀の血を受け継いだ徳川将軍家嫡流は絶えた為、それも相まったものと考えられます。








一応、信秀の弁護をしておきますと、彼の時代はまだ、尾張では下剋上の風潮が育っていなかった為、信秀自身は最期まで尾張の実力者止まりで、外征する際も守護代織田達勝の名の元に、尾張の国人らから兵を借りて戦っていたわけです。


つまり、建て前上はみんな同格な為、ついて来てくれた国人らにあまり無理な命令が下せなかった事に原因があるんですね。




…早く言えば、典型的な烏合の衆だったという訳です。

烏合の衆は、勝ち戦ではそれほど問題ないのですが、統率が取れてない為、劣勢時に軍を支えにくいという致命的な欠陥を抱えております。


そんな悪条件でも、三河と美濃に一時橋頭堡を築けた信秀は、もっと評価されてもいいんですがね。









…いかがでしょう。

まったくないとは言いませんが、実際は土地土地で兵の個々の強さが変わる事は、そうはないでしょう。




しかし、県別対抗の駅伝でムキになったり、隣県の方言をバカにしたりと、他の県と一緒にしてほしくない…という心理が働くのは、土地に根付いて不動産を至高の価値とする日本という、県民性が根強い国独特の文化なのかもしれませんね。






…今回は、こんな感じで。