【歴史考察】森蘭丸の諱について | 李厳さんの独り言

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どうも、李厳です。



今回は、森蘭丸について、書いてみようと思います。





姓は森、諱は成利(なりとし)。

皆さんご存知の「らんまる」というのは幼名で、正しくは『乱丸』と書きます。



厳密に言うと、同時代の公家の日記や、太田牛一の「信長公記」などを読んでも、「森乱」・「御乱」・「乱法師」が出てくるのみで、「らんまる」という名前は出て来ません




実は、「乱丸」という名前自体、元和八年(1622)版の小瀬甫庵の『信長記』が初出で、実際は文書などに見える「乱法師」が正しい名前だったものと思われます。



一方、華やかなイメージのある「蘭」を用いた『蘭丸』の表記の初出は、大久保彦左衛門によって書かれた『三河物語』で、以降、軍記・物語の類で本能寺の変を取り扱う場合、『蘭丸』という表記が一般的になりました。



さて、そんな乱丸ですが、「成利」の他にもう一つ…「長定」という諱が世間的に知られております。


…が、これまた同時代の諸史料には見えない名前です。





ここでは、その「長定」の諱について、考えて見たいと思います



「長定」の名前が見え出すのが、江戸後期に著された「森家先代実録」や「寛政重修諸家譜」の類ですが、江戸初期の寛永年間に幕府が編纂した「寛永諸家系図伝」の森家系図では、蘭丸は諱不詳で「某」と書かれてあります


面白いのが、説明の部分で「蘭丸(らんまろ」と説明されてる事です。

これは誤植ではないようで、弟坊丸・力丸も(ぼうまろ)・(りきまろ)と書かれてあります。




江戸時代の森家は、乱丸の末弟の森美作守忠政が大名として生き残りますが、彼は嫡子を早くに亡くして以後、晩年に自らの跡継ぎを模索する必要に迫られます。




そこで候補に挙がったのが、家臣である関家に嫁いだ娘が生んだ娘孫の家継でした。

忠政自身は、家継が家臣筋に下げ渡した娘の子という事に不満があったようですが、結局忠政の死後に家継が跡を継ぎ、諱を「長継」に変えております。

この偏諱(名前の一字)の「長」は、舅である池田長幸からの一字拝領と思われますが、その長幸は父長吉(輝政の弟)から、長吉は元服時に信長から頂いたという由緒ある偏諱でした。


以降、森家の宗家では、「長」が通字(その家に代々伝わる名前の一字)となっていきます。


そして、百数十年経った江戸後期(1800年代)になって、森家はやたら「森家譜」だの「森家先代実録」だのと、先祖を誇らしげに語る史料をボコボコ出してまいります。



そこら辺りから、実際は長継が池田長吉から貰った「長」の字を、『実は我が家の通字「長」は、織田信長から拝領したものである』と吹聴したかったのだと取る事ができます。



その根拠の一環には、蘭丸の次兄森武蔵守長可の存在があったのでしょう。

当然、元服していた蘭丸や坊丸・力丸にも諱をつけなければいけないので、それぞれ…


蘭丸(長定)
坊丸(長隆)
力丸(長氏)


という諱を与えたものと考えられます。

こうして「森乱丸=森成利」は、森蘭丸=森長定」として江戸後期以降、混同されて今日に至ったようです。
おそらくこの推理は間違っていないと思います。



今回は、こんな感じで。