中学の頃だったか、
保健体育の授業で
「心」をテーマにした授業の時でした。
考えてみれば、今から40年ぐらい前の話←古っ
授業の最初に、1人の男子が
「心なんてない」
「どこにあるんだ」
「そんな目に見えないものは、信じられない」
と、先生にかみついて
結局、1時間、平行線のまま
授業が潰れてしまった
次の授業の時、先生が
「心というものが、脳の一部に存在する
と仮定して、話を進めていきたい」
という事で
とりあえず、授業再開となったことがありました。
授業の内容は全然覚えていないけど
「心」という言葉を
なんの違和感も持たずに使っていた私にとって
いまだに忘れられない時間です
その後、「心」という言葉を使う度に、
この時のことが、フラッシュバックしていました。
今でも、時々思い出します
会話している相手に
「この人は、私のイメージと違うイメージを持ちながら
話をしているんだろうな」と思い、
「コミュニケーション」「意思の疎通」って
本当に難しいものだなって感じました。
「言葉に命をかけています」
みたいな話を聞く度に
「確かに、言葉は言霊(ことだま)
ぞんざいな使い方はしたくない。
でも
言葉にあまりいろんな思いを盛り込んでも
相手がどこまで受け取ってくれるのか
相手次第やん」と
頭の端っこで、
微妙な違和感を感じている私がいました
生まれてから全然違う生活環境で生きてきた人同士で
(極端に言えば、同じ家に住む家族でさえ)
完全にわかり合えるということは
幻想なんじゃないか
と、子供心に感じていました。←中学生は子供か
「たかが、言葉
されど、言葉
されど、たかが言葉」
「言葉」は大事なツールなんだけど
所詮「ツール」でしかない
それを扱う人によって
いろんな側面と表情を見せてくれるのが
「言葉」なんじゃないかな
「言葉狩り」
とか
「差別語」
という言葉を聞く度に
考えさせられます