車両の公共道路上における運転は、おおよそタイトルの5分野のその分配量でそれぞれの運転流派で表現が”できそうな気”がする。
いうまでもなく・・・・いったところで「交通とはそのときどきの道路上の移動物の状況であり、なおかつ刻々と変化しつづけるものである」などと言葉で交通を表現しても、その言葉が表現したい多くの交通情報を思い描けるドライバーも”多くはない”だろう。
「交通とは・・・・刻々と変化をしつづける・・・」のだから、一定ではない。
そうでありながら一定の自分の運転があるなら、それが安全運転なはずはない。
人という生き物の反射機能も含めた機能などの本能から、思考や欲望などの精神的本能も含めたエゴイスト思考と行為、そういう人間のものから交通における早く移動するという物理的交通効率と、道路上の決りである法律と、ここまでをすべて含めた安全という法律の存在する大きな目的の安全運転というものがある。
こちらの記憶に古くからある安全運転からはじまる運転の話は、停止して移動しないからぶつからず、低速で走るから運転する情況がより楽になるという行為を、「安全運転」と呼ぶ人が多かったと記憶し、本当につい最近まで報道まで含めてそれが安全運転と馬鹿なことを言い続けていたはず。
危険だから速度を落とし、危険だから停止する。
これは正しい。
だが、動かないから安全という移動はなく、低速で走るから安全運転というのは意味不明だ。
また、おちついてあわてずに運転するということは正しいが、呑気にのんびりと、ただ自分の精神がリラックスしているから安全運転を自分がしているというのは意味としては半分間違えている。
運転していて、それも自転車やバイクや1トン近くやそれ以上の車をリラックスすることが安全運転しているという感覚の人が、安全運転している”はずがない”。
はずがないんだ。
のんきに、のんびり、リラックスしてるから運転中でもスマフォも見れるわけだ。
別にスマフォを見なくても、それこそ刻々と変化する交通状況を知性ある、運転免許が必要な行為である運転をきちんとするのに、リラックスしている?しつづけている?
安全運転ができるはずがない。
他人の安全運転の恩恵を受けて、その人も事故がないだけだ。
運転の理想的な精神状況は、軽い緊張状態、あるいは適度な緊張状態の持続である。
間違いない。
間違えているはずがない正解だ・・・・・・・ということがわかるのかな?
よく聞きそうな、「自分だけが事故に巻き込まれずに安全でいれる運転をすればいい。」
いやいや、自分だけで他のドライバーや周りの状況を考えれないのなら、安全運転できるわけがない。
多いのは、できないドライバーである、それを普通というのが一般的ドライバーである。
「俺がこうしたいのにこいつが邪魔だ!」
と、相手がそれこそ道交法を守ってるのにクラクションまで鳴らして他人を自分のエゴ通りに動けと働きかける。
一時停止の標識で停止(いまだに徐行が停止の感覚のドライバーは道路上にいるのかな?いるんだろうな)だから停止すればクラクションを鳴らし、前が渋滞しているので信号が変わると交差点内で停車することが明らかなので停止するとクラクションを鳴らす後続車ドライバーとか。
クラクション鳴らすのにまともな人は多くないが、今の日本は合理的なまともな人こそが”おかしい人”とされるのが、普通の人と自覚しているおかしな多くの人であるという事実。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」
↑これが正しいとしている人達だな。
さて、運転の流派だが、まだ何も述べていない。
正直、現実はタイトルの5分野のそれぞれの分配量というバランス配分だが、あえて大きく5分類してみる。
道交法は自分ではなく他人が守るものという流派、自分優先であり道交法もそれによる都合で守らない流派、道交法優先で自分の優先を抑える流派、道交法が正義であるとしてその定めによる運転をするが運転技量と道交法の知識がない流派、道交法が正義でありその知識もほぼ正確に知り使う流派(特にパトカードライバーが多い)。
という具合に無理やり流派の区分が可能だ。
まともな流派は、自動車などが生まれた目的である「より早く移動と物を運ぶ」効率と、道交法も含め安全に運転しようとする能力と知識を持つ流派である。
もちろん、誰もが、まともな流派を目指すが、現実は大きくわけた5流派のどれかの系統になるだろう。
とりあえず道交法を100%知ってるだけでもすごいことだし、その道交法通りに現実の道路で運転できることもすごいことだし、とびだす動物や意識不明ドライバーが踏み込んだアクセルにより走行する車も完全に道路上にいる状況でよけれる超人的技量と異次元の車両に乗る人などいないわけだが。
とりあえず正しい「安全運転」という言葉の意味を認識するのが最初だろう。
「こっちが優先だぞ!」
という状況でも、そのうえであえてわざとぶつかる行為なんて、危険運転行為そのものでまさにそれが最大の過失だろ。
脳内や言葉のやりとりやそれぞれの主観や狭い視野での状況認識とか何者かに教わった怪しげな対処運転法に至上の価値があるわけもない。