源三郎さんの埋葬地~参 | 土方歳三資料館日記 (Hijikata Toshizo Museum Blog)

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土方歳三の生家跡に設けられた資料館にて運営に携わる子孫の綴る日記。

(壱から順にお読みください。)


次に妙教寺へ。



こちらでは

鳥羽伏見戦争時の砲弾が

壁を貫通した後の残るお寺として有名ですが、


毎年2月4日に幕軍戦没者の

法要を営んでおられます。


御住職様は非常に詳しく当時の様子

をご説明くださり、

また貫通した大砲弾、埋められていた脇差、

その他の維新時の史料を前に

いろいろと教えていただきました。





妙教寺1


余談になりますが、私は、初めてその貫通した砲弾を持ちました。


そして、その重さに愕然としました。

ちょうど昨年12月に

笹子峠の旧道を歩いて越えたところでしたので、
甲州勝沼戦争時に運んだ

武器類の荷物の重さを身をもって実感させられました。




妙教寺2

貫通した砲弾は、不発弾だったそうです。

中央のねじ穴のところに挿入されるべき信管がなく、

それで破裂せずに現在まで残されたということでした。


信管を詰める間もなかったのでしょうか。

当日の戦況の混乱が伝わってくるようでした。


また、掘り起こされた刀は、

銘がかすかに読み取れるものの、

赤錆が回っているために解読することは出来ませんでした。


ただ、当日戦いに用いられた跡が、

途中から少し曲がった刀身に感じられました。




妙教寺からは愛宕茶屋へ。




当日の一部始終を見ていたであろう

銀杏の大木があり、その前の碑の前で

献花し、戦没した方たちの冥福を祈りました。







そして、「欣浄寺」跡地へ…。




皆で何度も何度も、

このあたりと地図で調べたところです。





当日、地主さんや地元の方のお話より、

以前整地した際に、お寺の跡地から

墓石と人骨が出てきたことなども分かり、

その正確な場所も教えていただきました。


また、その時の庭師さんの連絡先なども

教えていただきました。


井上様は終始真剣な面持ちでいらっしゃいました。



地主様のご了解を頂き、

井上様は用意していらした入れ物に

大切そうに土を入れていらっしゃいました。



まだ当時12歳だった泰助さん、

どうしても首と剣の達人源三郎さんの魂でもある刀を

持っていけないと思ったとき、


生家の前のお寺と同じ名前のお寺に、

叔父さんの御霊をお願いしようと思ったのではないでしょうか。



「ここだったら、叔父さんも寂しくないのでは…。」



混乱した状況の中

幼心にも思うところがあったのでしょう。






そこで営業されているおうどんやさんで

皆で昼食をいただきました。





斜向かいに井上様、お隣に宮川様、

正面にガイドのI様がお座りになりました。


私、あのときの

かやくご飯セットの味は

一生忘れられそうにありません。





その後、泰助さんが退却してきたルートをさかのぼり、

源三郎さんの戦士地である千両松へと向かいました。




続きます。