碧血碑慰霊祭を知っていますか? | 土方歳三資料館日記 (Hijikata Toshizo Museum Blog)

土方歳三資料館日記 (Hijikata Toshizo Museum Blog)

土方歳三の生家跡に設けられた資料館にて運営に携わる子孫の綴る日記。

歳三さんが戦死した明治2年5月11日の一週間後に

五稜郭は開城し、戊辰戦争は終結しました。


勿論、函館の街中には、

激しかった戦況を物語るかのように

至る所に旧幕軍や新政府軍の戦死者の遺体が

放置されていました。


しかし、旧幕軍戦没者の亡骸に関しては、

埋葬し供養することが許されませんでした。


現在の暦で言えば6月末頃の初夏の気候の中、

亡骸の腐敗は進んでいったそうです。


それを見かねた柳川熊吉翁が、

子分たちとともに夜を徹して亡骸を埋葬したのです。


その後、その戦没者たちの供養の為、

榎本武揚ら旧幕軍幹部らが中心となって

明治八年の五月に立てられたのが、

碧血碑だということは皆様もご存知かと思います。



柳川翁はその後、碧血碑の番人となって生涯を送りました。

番人小屋は、現在の位置で言うと、

車道から碧血碑に上っていく山道の始まりのあたりに

建てられていたそうです。



歳三さんも後年、この碧血碑に改葬されたとも伝わっております。



土方家にとって大切な場所だということは勿論のことですが、

旧幕軍幹部たちも明治政府に登用された後も

忘れることのできない、亡き同志たちを祀った碑でありました。



その証拠に、旧幕軍関係者の幹部や遺族、

関係者らを中心とした「碧血会」という会が存在します。

(もちろん土方家も代々会員です)


そしてその会と実行寺により、

毎年6月25日(つまり旧暦で云う所の戊辰戦争の終結が

決した日ですね)には、

現在まで140年近くも絶えることなく、

「碧血碑慰霊祭」が執り行われています。



物事を始めるのは比較的容易いことですが、

それを継続していくのは困難であることが多いものです。



榎本家、柳川家、大鳥家をはじめ、実に四代以上に渡り、

世代から世代へと先祖の思いを継いで来た訳です。





そして、碧血碑の裏面には、こう刻まれています。


ダウン下の拓本は、昭和後期に碧血会会員に頒布されたものです。)



碧血碑拓本ブログ用


直訳すると、



「明治辰巳の年に、実に此の事があった。

山の上に石を立てることを以って、

その志を表そうとするものである。

明治8年5月」



何だか内容のはっきりしない書き方ですね。

「旧幕軍戦没者」とか「東軍慰霊」とか

祀った対象者などもはっきりとは書かれていません。



でも実は、この文言が当時の状況をよく表しているんですね。



太政官布告にて、

「旧幕軍戦没者の慰霊を行ってもよい」と

いうことにはなりましたが、

まだまだ当時の世情の中では

受け入れられないものがあったようです。


そのためこのように、そうした事情に配慮した

碑文の書き方がなされたようです。




でも、この文言には

何よりも何よりも深い意味と思いが

こめられているのでしょうね。




現在の函館は大変魅力的な観光都市です。


海産物もおいしいですし、夜景も素晴らしいですし、

見所のつきない場所です。


加えて、新選組がお好きな方なら、

五稜郭公園や土方歳三最後の地碑を訪れたりされること

でしょう。


でも、少しの時間と脚力の余裕があるなら、是非

碧血碑を訪れてみることをお勧めします。


少し不便で、観光地化されていない場所ですが。


東軍にかかわった全ての関係者たちの

深い思いがこめられている碑だという点で、

とても大切な場所だと思います。



そこから函館市街を見下ろしていると、

きっといつの間にか長いときを過ごしてしまうでしょうね…ニコニコ



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