北海道日本ハムファイターズ42年ぶり日本一優勝記念シリーズ(1 | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

大社義規(おおこそよしのり)





大社義規


 










42年ぶりの日本一を一番喜んでいるのは、新庄でも金子でもダルビッシュでもない。05年4月に亡くなった日本ハムの創業者、大社義規(おおこそよしのり)故人であろう。故人の野球に対する高い視点と深い愛情は特筆すべきものだったことは、亡くなられたときの関係者の声で分かるような気がする。










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同郷中西氏は神妙



日本ハムの初代監督を務めた中西太氏(72=日刊スポーツ評論家)は、大社前オーナーの訃報に「プロに入る前から本当に世話になった」と昔を振り返った。出身がともに香川県高松市。同郷でもあり、中西氏が高校時代から付き合いがあった。「プロ入り後も新人王、本塁打王をとって帰ると、財界人などが開いてくれる食事会で、珍しい肉を持って来て『食べなさい』と勧めてくれてね。肉なんかそうそう食べられない時代だった。うまい肉だったね」。日本ハム球団を持つ際は、真っ先に相談されたという。「本当に野球が好きな方だった。ご冥福をお祈りします」と神妙に話した。










日本ハム今村純二球団社長



初代、大社オーナーがお亡くなりになり本当に悲しい限りです。創業者であり、オーナーであり、本当に野球を愛し、常に球場によく足を運ばれ選手を激励されていた姿を思い起こします。亡き、初代オーナーの意思を継いで、優勝を目指していきます。










 大沢啓二氏(81年のリーグ制覇時を含め2期、計約11年間監督を務めた)



大変残念です。自分にとっては、おやじのような存在で何でも話せる人でした。12球団の中でも野球に一番情熱を持ったオーナーで、リーグ優勝の時には「ビールを頭から飲んだのは、初めてだ」と子供のように喜んでいた姿が今でも思い出に残っています。もう1度、オーナーの胴上げが見たかった。










上田利治元日本ハム監督



野球をしんから好きで、心から愛していたオーナーだった。1人1人の選手をすごく大事にしていた。そばにいて温もりを感じさせてくれた。人間味のあふれる方だった。5年間(監督として)お世話になって、2シーズンはチャンスがあったけど優勝できなかったのが心残り。優勝して一緒に喜びたかった。










日本ハム・ヒルマン監督



多くの方に愛された大社初代オーナーが亡くなられ、非常に悲しい。彼が直接会いに来てくれ、野球の話に花を咲かせたり、手を握ってくれたことを今でも鮮明に覚えています。会社としての組織のみならず、野球にも情熱を注がれた方なので、我々はその思いを忘れずにこれからもやっていきたい。










日本ハム白井ヘッドコーチ



誰よりも野球を愛された方。チームにも選手にも愛情を注いで頂き、これ以上のない環境の中で野球ができたことをとても感謝しています。何とか日本一の喜びを味わって欲しかったのですが…、それだけが残念。










阪神久万前オーナー



オーナーとして大先輩でいらっしゃった大社会長の訃報に接し、深い悲しみを覚えております。4年前、片岡選手をFA制度により獲得しました際、彼を快く送り出していただいた球界全体を思うご姿勢、お考えに深く敬服した思い出があります。心よりご冥福をお祈り申し上げます。










中日落合監督



(報道陣から伝え聞き)えっ…。一番、野球が好きな人だったんじゃないか。情熱もあったしなあ…。










ソフトバンク王監督



今のファイターズをつくりあげ、心の底からファイターズを愛し、野球を愛された方だと思います。熱心に球場に足を運んでいたことを今でも思い出します。










パ・リーグ小池会長



純粋なまでに野球を愛し、12球団でも特筆されるほどチームを愛しておられた方でした。球界へのご貢献も多大で、ただただ感謝するばかりです。心からごめい福をお祈り申し上げます。






(日刊スポーツ)










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人気が低迷していた日拓ホームフライヤーズを買収して野球界に参入した。野球を愛し、球界一球場に足を運ぶ名物オーナーとしても知られ、81年に念願のリーグ優勝を果たした。02年、牛肉偽装問題で引責辞任したが、チームの北海道移転にも影響力を発揮したと言われる。










「球界一、球場に足を運ぶ」オーナーと呼ばれ、85年から4年間、監督も務めた高田GMは「負けているときも応援に来てくれた。そこが普通のオーナーと違った」と振り返った。










100キロの巨体にふさわしい豪放磊落な性格だったと言われる。また、一方で人一倍気を使う性格だったとも言われる。携帯電話が出始めたころ、箱形のバッテリーつきの電話を肩から担がせ球団職員に1イニングごとの試合経過を報告させたという逸話が残っている。引退後は全試合観戦できるようにCS放送を自宅に完備し、80歳を越えても2月のキャンプインには千葉・鴨川に足を運び選手に声を掛けた。大沢親分は「おやじのような存在」大社前オーナーを慕う球団関係者は多かった。










42年に27歳で同社の前身、徳島食肉加工場を設立。戦後、全国に進出し事業を拡大した。73年、第1次石油ショックの中、球団買収に動いた。銀行筋から「道楽が過ぎる」と非難されながらも決断した。球団を持つことで本社経営に好影響を与えた。前年の73年7月決算では850億円だった売り上げが翌74年に1091億円、04年は9600億円へと飛躍。「食肉業界の松下幸之助」と呼ばれた。










02年8月、日本ハム関連会社による牛肉偽装問題が発覚し、引責辞任した。その後、入退院を繰り返したが野球への情熱が冷めることは一切なかった。長男啓二氏が決意した移転を、後押しした。04年の札幌ドームの本拠地開幕戦はバックネット裏で観戦。プレーオフ進出を決めたオリックス戦は自宅で「バンザイ!」と叫んだという。81年にリーグ優勝を果たしたが、日本一は見ることなく昨年亡くなった。










今回、日本ハムが優勝することで、道民の方々は勇気付けられただろうし、球界が盛り上がったと思う。それは野球に情熱を注ぎ、愛し続けたオーナーがいたことを忘れてはならないと思う。