メイク・ストーリー『境界線』(後編)
メイクストーリー、‘後編’をお届けします
『境界線』 (後編) (由希美:21歳)
「由希美はさ、唇、やわらかいよね。」
この言葉が、誰かと比較されていることばだと気がついたのは、
その数ヶ月後だった。
隆志は、悪びれもなく、
「俺、だれかと付き合うって、ほんとそういう気、ないんだよね。」と、
それがあたかも
「きょうの昼飯、なんにする?」
ほどの唐突でありながらも自然体な口調だったことに
半ばあきれかけながら
面くらったのを、昨日のことのように思い出す。
その後、まるでとってつけたかのように
「この前話した、横田さんって、いたよね。
その子が、いま1番気に入ってるんだよね。」
───気付かなかったわたしがいけなかった。
付き合うとか付き合わないとか、そういうことの前に、
境界線を持ち合わせていない人なんだっていうことに、
もっと早く気がつくべきだった・・・
思い出すと、涙のしずくがほろりほろりと、
コートの上に落ちていく。
「あの・・・だいじょうぶですか。。」
と、白いハンカチをわたしに差し出しながら、
話しかけてくれた人がいた。
わたしの目は潤んでいたから、
その人の顔は見れなかったのだけど、
やさしそうな香りが漂う人だ、ということはわかった。
「・・ぁ、はい・・、お気に入りのグロス、なくしちゃって。。。」
普段だったら、話しかけられて、
応対することなんて皆無に近いのに、
なぜか、隆志以外の人に、いまは思いきり、寄りかかりたかった。
「あ・・ 余計なお世話かもしれないですけど、、」
といってその人は、なめらかで、
肌触りのよさそうな黒い皮の化粧ポーチから、
ペンシルのようなものと、リップを取り出した。
「きっとあなたね、グロスをつけるのよりも、
リップスティックのほうが、似合うと思うんです。
・・塗らせてもらって、いいですか?」
突然の申し出に、断る理由を探す間もなかった。
かすかにうなずいたことを合図に、
その女の人は、それまでわたしになかった境界線を引くかのように、
リップペンシルで、丁寧に唇のラインをとってくれた。
「あ・・これね、「ココシャネル」っていうリップなの。
これをつけると、あぁ、わたし、きちんとメイクをしているレディなんだ、
って思えるの。
あなたはね、ラインをしっかりとってから塗ると、
もっとキレイになれると思ったの。」
と言いながら、慣れた手つきで塗ってくれた。
こんなに丁寧に扱われたことって、
もしかしたらはじめてかもしれない、と思うほど、
ソフトタッチでありながら、曲がることのない美しいライン。
唇そのものが美しいと思える、発色のよい唇・・
自分で、惚れ惚れしてしまったくらいだった。
「ほら。やっぱり似合う。」
とその人は静かにほほえみながら、去っていった。
・・自分と隆志との間に、正式であり、
正確な境界線を、はじめて引けた気がした。
誰かのためじゃない、自分のために、1本の線をもってみよう。
と思った。
そう、ただ、決めればよかったんだ。
そう思ったら、急に体が熱くなってきて、
厚手のコートを脱ぎ、その人に軽く会釈をして、
化粧室をあとにした。
「あ・・ ココ、シャネル、だっけ・・?
何番だったか、聞いておけばよかったかな・・」
その心の声は、どこか弾んでいて、
わたしは目を閉じ、フーー、と深呼吸をして、さっきよりも、
ちょっと顔を上向きにして、
駅へと続く階段を一気に駆け下りていった。
(end)