2011年8月15日 南三陸 活動報告 | ONLY ONE HEART 東北地方太平洋沖地震 緊急支援チーム 

2011年8月15日 南三陸 活動報告

実はこの町を訪れたのは、このブログに寄せられたひとつのコメントがキッカケでした。
そのコメントをくれたのは南三陸、志津川町出身のタカシ。

彼とは以前から知り合いだったが、このような形で再会する事になるとは夢にも思わなかった。

その後すぐにタカシに連絡を取り、色々な事を話した。


そして彼の実家は津波により全て流された事を知った。


タカシは「アツシさんが自分の町でもない場所に行き、活動されてるのを知って

他の町も大変だと知りました。そんな時に心苦しいし、本当に申し訳なく思うんですけど、

僕はなんとか地元の力になりたいんです。南三陸の事しか考えられないんです」そう話した。


その事に何か後ろめたさがあるとも話した。


俺は「そんな事あるもんか。俺だってタカシの立場なら、自分の町の事しか考えられないよ」

「でも、実際どうやって町の力になれるか考えてしまいます」

その言葉がキッカケになり

「じゃあ、南三陸で一緒に炊き出しをやろう!」という事になった。

そう答えるとタカシはホっとしたようで、声のトーンが明るくなった。

(何か出来ないか一生懸命方法を探してたんだろうな)と、すぐわかった。


そう話しをしたのが5月初旬の事でした。


残念ながら避難所閉鎖など問題があり、今回は炊き出しは叶わなかったけど、

たくさんの物資を持って行く事ができた。

彼の友人のマサキや、後輩で仮設に住むマコトを中心に、

近隣の方々にもたくさんの物資を配る事が出来ました。


タカシが強く、熱く地元を愛する気持ちが形になった瞬間だったと思います。


それと同時に、only one heart に皆さんが送ってくれた支援金が、この南三陸町でも、
生きたお金になり、こんなにも喜んで貰えた事を先ず、ご報告しておきます。


8月15日 快晴


昨夜の南相馬を終え、えのさわ君を東北道まで送り届けた後、
菅生PAまで走り、そこで一晩を明かした。
凄まじい雷雨の夜。
激しく車を叩き付ける雨音を子守唄に、眠りについた。

翌朝。快晴。

この日は塩竈から45号線を走り、松島、石巻を通りながら北上。
途中、東松島で半壊した住宅を片付け中の若い夫婦に声をかけ、
鍋、食糧、衣類などを手渡す事が出来ました。

お盆で45号線は大渋滞だったので先を急いだ。
三陸自動車道を走り、登米東和出口を降り南三陸方面へ走る。

いよいよ目的の町だ。南三陸に続く一本道、本吉街道。
緩やかな坂を下って行くと、突然、瓦礫の山が点々と見えてきた。

この時、俺は他の町では感じなかった違和感を感じた。
(この瓦礫は片付けられて、平地から持ってきたものか?)
それにしてはドッと集められている感じもない。

もしかするとここが津波の最終到達地点なのかもしれない。
そう思い、iPhoneで現在地をキャプチャーした。
その青く光っている部分が現在地地点で、そこから瓦礫が見え始めた。



俺が走って来た進行方向は下り坂だった。
(すると、津波がこの坂を上がっていったのか?)
そんな事を考えながら走っていると、今までの景色が突然一変した。





「やっぱり何もかも飲み込みながらこの坂を上がっていったんだ。」

この凄まじい光景とともに、改めて津波の威力を思い知らされた。

そしてテレビでよく見た志津川高校から撮影された映像が頭の中で蘇る。

思わず海と町に手を合わせました。




さて、タカシと久々の再会だ。待ち合わせ場所のコンビニに向かう。



そのコンビニは、いつも見るファミマの外観ではなく、仮設の店舗だった。



話しを聞くと「10日前から元気に営業再開しました!」と店員さんが話してくれました。




店内に入ると商品も充実。

あって当たり前だと思っていたコンビニ。

都内で無意味に乱立するコンビニは目にも止まらないけど、

このファミマは輝いていたよ。



この仮店舗の隣が元あった場所。基礎が剥き出しのままになっている。



タカシが到着する間、町を見渡す。

小さな町だけど、海があって、山があって、とても素敵な場所だ。
津波はこの町も、思い出も、命もさらってしまった。


この映像が何度も何度も頭の中で再生され続けていました。





ほどなくタカシが可愛い盛りの子供達と奥さんを連れて到着。
元気そうな顔でまずは一安心。
そして早速、持って来た品物を届けに行った。




パソコンスクールをやっているリエさんが「後日子供達に渡しますね」

とたくさん持っていってくれました。

その後、ツイッターのDMに子供達の嬉しそうな表情の写真付きで


お礼のメールがきました。

(写真はNGの為載せる事ができませんでした)





歌津の仮設住宅にも持って行きました。
最初はまばらだった人も、マコトの呼びかけでドンドン集まる。







みんな楽しそうに、思い思いに好きな物を選んでくれました。


おばあちゃんが「これ、うちのじいちゃんに着せるわよ」と選んだのは

関西PUNKSのマサシが作っているTシャツ。


背にドクロを背負ったバリバリのロックアイテムだけど、

おばあちゃんは嬉しそうに持って行きました。



この子が持っている巾着袋は子供用のお楽しみ袋。

川越ママサンズのちひろが全部縫って用意してくれた。

中身はハンカチ、ぬいぐるみ、シャボン玉、消しゴム、ポーチ、

水鉄砲、風船、縄飛び、クレヨン、うまい棒などなど。


本当はみんなに呼びかけて集めたかったんだけど、保管場所がままならず、集める事ができませんでした。


しかしツイッターで呼びかけた所、たくさんの方が協力してくれるという事で

次回また集める事ができるかもしれません。

その時はどうぞよろしくお願いいたします。


ほぼ完売したのを見届けて、あとはマコトにその場を任せ、

陽があるうちにタカシに町を案内してもらった。







その赤く染まった木は杉です。

タカシの話しでは松や竹はそうならず、杉だけ塩害により赤く変色したと言っていた。

つまりその高さまで波が来たという事ですよね。


帰る際に、給油のためGSに寄った。



歌津で三浦石油を営む三浦さん。




給油中、何気なく話しかけたら3・11に何があったかを話してくれました。

その時の凄まじい状況はこうです。


地震の後、津波が来ているのは分かっていた。

逃げようとしたら、すぐそこで人が動けずにいる。

俺は「逃げろ!逃げろ!」と叫んだけど、その人は足がすくんじゃって動けない。

その時、水はまだ、足のくるぶしくらいだったんだけど、水の威力は凄い。

で、俺はしばらくその人に気を取られてたんだ。


その時、さっき店から帰った息子がもの凄い勢いで戻ってきた。


「おやじー!!後ろを見ろおおお!!つかまれーーー!!!!!!!」


後ろを振り向くと、この店の上を津波が超えて来たんだよ!



「おやじーーー!!つかまれええええ!!!!」

息子の声にハっとして、とっさにバンパーに掴まり、

それを確認した息子は猛ダッシュで車を走らせた。

そして命からがら助かったんだ。


その時、流れ行く津波を見ると店のお客さんが車の中にいるまま

流されていったそうです。

「そのお客さん、私に手を振っていた。切ないだけじゃ言い表せない。」


そして私は一度死んだ命。もう何でもやってやるという気持ちで震災から二日後、この店を開けた。

ちょうど地下タンクも目一杯ガソリンがあったから海水がはいる余地が無かったのも幸いだ。

手ポンプで海水を出し、オレンジ色の綺麗なガソリンが出て来た時は嬉しかったねえ!

そこからこのタンクが無くなるまで町中の車に給油したよ。

もちろんお代なんかもらってないよ!全部無料だ。

後はもう店をやる為に、レジでもなんでもこの店の敷地内に流れてきたものは拾って使ったよ。


話しを聞きながら、三浦さんのガソリンで助かった命がたくさんあると思いました。


「まだまだ店はこんな感じだけど、俺は絶対にあきらめない。」

そう語った三浦さん。

貴重なお話をありがとうございました。

南三陸に行く事があったらどうぞ、三浦石油 歌津SSをよろしくお願いします。



「凄い体験談が聞けたな」そんな話しをしながら戻った。

途中、タカシが「私用なんですけど、会っておきたい奴がいるんすけどいいっすか?」

タカシは今回の震災で思う事があり、「いつでも会えるからまた今度」は止めたという。

俺もわかるな。(会える時は会っておこう)そう、人生を通して思っていたので、

二つ返事で了解し向かった。


その後、タカシがよく飲みに行っていたというに「食通 さとみ」に行った。

この店は元々、町の中心を流れる八幡川沿いにあったそうですが、津波で流失。

店主の真ちゃんが「みんなが集まれる場所を」と自宅を使い営業を再開したのだ。

「田舎の実家に帰ってきた」そんな感じで寛げる空間でとても居心地がよかった。

この件が河北新聞に載っていたのでリンクを貼っておくので是非、御一読ください。

食通さとみ 


仮設で残りの物資を配ってくれたマコト、タカシと今後の

南三陸の復興を祈願して飲んだ。

当然話題は震災の事。


そこでまたとんでもない話しを聞きました。

この店の店主である真ちゃんの震災当日のエピソード。


タカシがメールで詳しく書いてくれたのでそのまま転載します。


「真さんは、元々、南三陸町の社会福祉協議会という所で働いていて、老人福祉の担当でした。
震災当日、南三陸町の高野会館というところで、敬老会を開いており、その会の担当者でした。
敬老会が終了した直後に地震が来て、そこから役場へ走り、状況を確認し、


自分の子供の安否、自宅の状況も見ずに会館に戻り、そこにいた従業員、

老人の方々約400人を屋上に誘導避難させました。

津波は想像以上に高く、屋上まで届き、このままではまずいと、

更に上のボイラー室というか、機械室の中、更にはその上まで人を引き上げたそうです。

あまりにも情報が錯誤し、会館の方では状況を確認出来ていなかった為に、

もし真さんが戻らなければ、帰ろうとしている方や残った方々は津波に飲み込まれていたかもしれません。」


400人の命を救った真ちゃんは当時の様子をこう語っていました。

会館に戻って先ず400人を二階にあげたんです。すると一階のガラスがバリンと

割れる音がした。

「マズイと思って次は三階に」すると今度は二階のガラスが割れる音が。

そして急いでみんなを屋上へ上げたんです。

容赦ない津波は三階のガラスも割りました。

もう後が無い。そしてボイラー室のような場所にとにかく上げたんです。

でも波は膝まで達しました。

そこで波はその高さのまま止まったんです。

危機一髪。

きっと、この建物が4階、5階、いや天まで届かんばかりの

もっと高い建物であって欲しいと思ったんではないでしょうか。

3月。雪がまだ降る極寒の中、水に濡れたまま夜を明かしたそうです。

これはタカシが送ってくれた高野会館の写真です。



さらに消防隊員のマサキも不眠不休で活動をしたと話してくれた。

幼い子供達の命をいっぺんに奪った大川小学校やその周辺を担当し、

首まで水に浸かりながら捜索を続けたそうです。


さらに彼は「実は世間にはまだアップされてない映像があるので、

今日持って来ました」と言った。

早速見せてもらったんだけど、津波の一部始終がそこにはクッキリと映し出されていました。

人が飲まれ、車が飲まれ凄惨な事実がそこにはありました。

「これが津波か」そう思わせるのに、言葉より何より、

この映像一発で全てがわかる、そういった貴重な映像でした。


この映像は「是非使ってください」とマサキから許可を頂いたので、

9月25日、福岡の筑豊で行われるイベント「筑豊スピリッツ」で流す予定です。

ちなみにこの日はオンリーワンハートの為にブースを設けてもらえるとの事で、

今まで見て、聞いて、感じた事を話してきます。

その他、復興に向け頑張っている店の物産なんかも持って販売し、

そのままそのお店の収益として送金する予定です。

ブランクスのみんな、本当にありがとう!


マサキは更に土産として明石のタコより食通の間では有名な志津川のタコ、

そして毛ガニを持って来てくれました。



「アツシさんが来るって言うんで、震災前から取ってあった奴ですけど

持って来ました。どうぞ食べて下さい」

もうね、心で泣きました。



まだまだ、在宅避難をしてる人、仮設住宅に入った人。

みんな困ってます。

いつかこの町で炊き出しをやろうなとタカシと誓い、

最後に皆で写真を撮り、再会を誓って長い長い南三陸の夜は終わりました。


アップするのに時間がかかってしまったけど、正確に伝える為にこの時間が必要でした。

長文を最後まで読んでくれて本当にありがとうございました!


ATSUSHI