参考資料731 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

四百八十三年後
「すでに述べたように、予言における一週間は七年である。ダニエルの予言によれば、エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから“油注がれた君”の到来まで六十九週ある。神なる救世主はその六十九週の終わりに現れるというのだ。六十九週ということは、七をかけて四百八十三日、つまり四百八十三年である。
 いまわたしたちは、アルタクセルクセスが最初の法令を発してからちょうど四百八十三年後に来て、濁った水の流れる河の岸辺にいる。河の中に男が立っており、彼のまわりで流れが渦を巻いている。顔つきは険しいが、魅力ある人物だ。河岸では大勢の人びとが、その荒れ野の伝道者の説教に聞き入っていた。男はひどく熱っぽい口調で「悔い改めよ」とか「天の国は近づいた」とか言っている。悔い改めた人びとが次々とヨルダン河に入り、洗礼を受ける。説教者は、ほかならぬ洗礼者ヨハネその人だ。
 炎暑のなか、儀式はえんえんとつづく・・・・だが、そのとき突然、洗礼者ヨハネは熱弁の途中で口ごもる・・・・彼の視線は、群衆に混じって河岸に立っている若者に釘づけになっている・・・・洗礼者ヨハネは、その若者を指さして、声を張りあげる・・・・「見よ、世の罪を取り除く神の小羊を
 洗礼者ヨハネが指さした若者は、アルタクセルクセスが最初の布告を出してからきっかり四百八十三年後に、救世主宣言をしたナザレのイエスにほかならなかった。「エルサレム復興と再建についての御言葉が出されてから、救世主の到来まで、六十九週ある」
 ヨハネは、この若者がどのような存在であると大声で言ったのだろう?

 ヨハネは、この方〔キリスト〕について証しをし、声を張りあげて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである・・・・さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。
 彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは「違う」と言った。さらに、「あなたは、あの予言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」
 ヨハネは、予言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」・・・・その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ・・・・わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」
ヨハネによる福音書 1章より抜粋

 ヨハネはイエスを“キリスト”であると宣言した。“キリスト”は“油を注がれた者”という意味のギリシア語である。“メシア”は、それとまったく同じ“油を注がれた者”という意味のヘブライ語である。キリストと救世主が同一人物であることに関しても、“神”と救世主が同一の存在であることに関しても、意見の食い違いはまったくなかった。そうしたわけで、自分は“神なる救世主”キリストであると主張したとき、イエスは“神”を自称するという不敬をおかしたことになり、自動的に冒涜者になったのである。
 当時のユダヤ教の指導者たちは、自分は“神なる救世主”キリストであるというイエスの主張を認めなかった。イエスはまさにその理由で殺されることになったのだから、彼が自分は救世主であり、かつ神であると述べたことに関しては疑問の余地がない。
 エルサレムの壁を《復興》し《再建》せよ、というアルタクセルクセスの布告から四百八十三年後だった当時、ことあるごとに予言者、たとえばダニエルの予言が自分たちの信仰の場所で読みあげられた理由を、ユダヤ教の指導者たちは有罪を宣告する前によく考えてみなかったのだろうか?救世主、つまり神が降臨されるのは今年じゃないか、イエスがその神なる救世主でないとしたら、だれが今年、神なる救世主として降臨されるというんだ、と疑問に思わなかったのだろうか?それとも、彼らもまた、現代人の多くと同様に、形式的に信仰をつづけていればそれで良しとしていたのだろうか?」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>見よ、世の罪を取り除く神の小羊を

以前に、「ほふられた小羊」と「イエス・キリスト」は別人という説を述べた時に「神の小羊」を軽く取り上げたが、小羊は人間(選民)で「神の」という修飾が付けばイエス・キリストである事は当然で「ほふられた小羊」と同一人物と考えるのはおかしいだろう。念のため、「ほふられた羊飼い」ならば当然イエス・キリストだと思うが。(殺された羊飼いという意味で。)
何故、ここでは「神の羊飼い」となっていないのか。これはまだ洗礼を受ける前だからではないだろうか。確か、イエス・キリストはヨハネに洗礼を受けると思った。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B4%97%E7%A4%BC

余談だが、イスラム教のコーランではイエス・キリストに当たる人物イーサーが出て来て、磔になるのは弟子の一人でイーサーは死んでいないとされるらしい。また、一説によると、カシュミールに移住し120歳(112歳説もある)まで生きたという説もあるらしい(関係ないが、日本の竹内文献によれば日本の青森に来て107歳で死んだらしい)。
イスラム教の終末論では、終末が近づくと偽救世主ダッジャールが現れ、一度は偽救世主が世界を支配するが、イーサーが再臨しマフディー(正しく導かれた者)とともにだっジャールを倒すらしい。
イエス・キリストとほふられた小羊が別人の証明ではないだろうか。因みに、マフディーはムハンマドの家系から出るらしい。

>それとも、彼らもまた、現代人の多くと同様に、形式的に信仰をつづけていればそれで良しとしていたのだろうか?

昔も今も本心では神よりも自分の都合なのだろう。( ´艸`)

おまけ