何回かにわたって業(カルマ)について思うところを述べてきた。
前回、前々回あたりのコメントでのやり取りにも書いたことだけれど、業(カルマ)の原義は「行為」であるものの、じっさいには何をやったかということだけではなく、どのような思いでそれをやったのか、そしてどのような方法でそれをやったのかということが大切だと思う。
たとえば、アホな奴らは恋人にプレゼントをするのに、何を贈るかで頭を悩ませる。
何カラットのダイヤモンドだとか、どこそこのブランドグッズだとか。
でも、ほんとうに大切なのはどのような思いで、そしてどのような方法でプレゼントを贈るかということじゃないのかな。
たまたまどこかから格安で入手できたから高級品を贈るのと、少ない給料の中から精いっぱいの品をあちこちの店を探し回って入手して贈るのとではやっぱり違う、とぼくは思っている。
(それでもやっぱりダイヤを頂戴と云う女はいるだろうけれど:笑)
芸術作品、芸術行為なんて典型で、「何を」表現するかよりも「どのような思いで」「いかに」表現するかの方が重要。
ぼくは人生もそうだと思っている。
「何を」やったっていい。
政治家だって、金儲けだって、タクシードライバーだって、主婦だって、あるいはニートだってかまわない。
「どのような思いで」「いかに」生きるかが大切。
ぼくのところにセッションに来てくださる方の多くは、「何を」ということに関する迷いや悩みで来られることが多いんだけど、ほんとうはそれはどっちでもいい。
まぁ、そう云ってしまっては身も蓋もないので、「何を」ということにアプローチしながら、「どのような思いで」という部分を醸成していくことになる訳だけれど。
ぼくの好きな言葉に、「ものごとは‘よい’か、‘とてもよい’のどちらかだ」(ボブ・フィックスさんによるマーリンのチャネリング)というのがある。
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ということで、ぼく自身は業(カルマ)ということはあまり気にしない。
何度も書くように、しょせん生きている以上は何らかの業(カルマ)を積む。
業(カルマ)を積むことを恐れるのではなく、委縮せずにそのときの自分にとっての最善を生ききるしかない。
そして、「業(カルマ)の法則」じたいがひとつの信念体系だ。
多くの人がその信念体系に従っているから、集合意識レベルで根強いものがあるけれど、でもそれには従わない道もあることは知っておいていい。
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もうひとつその上でいうなら、「どのような思いで」「いかに」というとき、そこで問われているのは何かと言えば、それはけっきょくは‘愛’なのだということ。
‘愛’というと何か甘っちょろい抽象的なイメージをもたれるかもしれないけれど、もっと具体的に云うなら、「生きるということに対する肯定」だと言い換えてもいい。
自分自身が、そして周囲の人たちが、あるいは自然界の生き物や地球が今このようにして生きているということをどれくらい強く、熱く、深く愛(め)でるか──それに勝る価値観はあり得ない。
なぜなら、すべての価値観を支えているのはまさにいま生きている自分でありあなたなのだから。
この宇宙には愛しかあり得ない。
「恐怖」や「怒り」や「悲しみ」や「憎しみ」といったものは実在してはいない。
愛が得られないかもしれないという気持ちが「恐怖」であり、愛を損なわれたという思いが「怒り」や「悲しみ」であり、それを埋め合わせたいという気持ちが「憎しみ」であるだけだ。
生きるということは、そのときのその人なりに愛を「どのような思いで」「いかに」表現するかであり、それぞれが‘よい’か‘とてもよい’のどちらかだということに過ぎない。
おかげさまでチョー多忙モードに入っちゃって時間がないので、最後かなり端折っちゃったけど、とりあえず業(カルマ)に関する連載はいったん終了^^)v【応援をお願いします! → 人気blogランキング】